2017年10月30日月曜日

2017/10/30: My family History(14) 一修山慧居士(其の5 大学生時代-2)

学生寮の生活では、様々な人間がいるのだということを学びました。大学に通いながら、酒を飲むために(?)血を売っているという姿も見ました。飲んでいたのでは間に合わないので、エチルアルコールを直接血管に注射している姿を見たこともあります。若しかするとアルコールではなく、別の麻薬系だったのかもしれません。本人はビタミン剤だなどと言っていましたが、注射後ご機嫌が良くなるので、アルコールが入っていたことは、間違いないでしょう。普通の生活から見ると、どう考えても異常な人々が周辺に見受けられました。そういう流れに巻き込まれないように生活して行くには、やはり、普通の生活をしている人々と交われる、市中の下宿の方が良いのかなと、2年生になってから、学生寮を出ます。
  とはいえ、すれすれラインのところで、面白い経験もありました。飲んべえの上級生で、将棋の好きな人がいたのですが、棋力はあまり強くありません。その人が、「寿司を只で食べに行こう」と誘ってくれたのです。寄宿舎から南に少し下った所に、飲み屋街が有ったのですが、その中の一軒、店主では無くその倅だったか、まだ若い職人さんで、将棋の好きな人がいまして、「俺に勝ったら、寿司を只にしてやる」と上級生を誘って、一種の掛け将棋をしてくれたらしいのです。所が、何度やっても、上級生は無料の寿司にありつけない。それで、私に「代打」を依頼して来たわけです。
 当時、私の正式な棋力は、将棋連盟傘下のアマ棋力認定状で、13級だったと思います。カードを持っていました。当時の常識的棋力差でいうと、アマ初段に飛角落でさせれば、12級でした。ただし、この認定をいただいたのは受験勉強を始める前でした。だますわけには行きませんから、「1年ちょっと前に13級でしたけど」と、カードを見せた上で、「わかった、平手で、勝ったら無料にするよ」。貧乏学生に対するボランティア気分で、OKして貰えたようです。
先輩すかさず、2番勝ったら、俺の分も只にしろ・・始終来ている常連客(あまり上客ではなさそうですが)ですから、ちゃっかり便乗。
 中盤に進む頃には、相手の棋力は見えて来ましたから、最初の一局は、きわどく勝つことにしまして、まず一勝。自分の分を獲得しました。そうそう、店はまだ開店時間でないころから始めたのです。続いて、上級生用の一局。「お店忙しくなりそうですね。早指しで行きましょうね。」。まだ弱いとはいえ、相手の棋力は見切っていましたから、ちょっと頓死気味に討ち取って、「あれ?詰んじゃった!」 誘ってくれた上級生の分も獲得出来ました。
 「連盟の免状って、結構強いんだなあ」。職人さんは、地元の将棋のグループでは、一桁級のランクにおられたようです。かなり、熱くなられて、また来てよ・・・向こうから再挑戦を受け、その後も1回、ご馳走になれましたが、申し訳ないので、お金を持ったときに、行くように変えました。
 認定状より強くなったのは、この1年、土木科のA君と知り合って、鍛えて貰っていたのです。当時工学部の学生で一番強いと言われたA君。どういうわけか、最初の一局で、問題にならないと思われた私が快勝してしまったのですね。多分、強いA君が私の棋力を探っているうちに、「横歩取」からの速攻が決まってしまったのでしょう。2局めからは、A君も容赦してくれません。この年13連敗。1勝13敗で一年終わりました。彼は相当強かった。・・・大学最後の年度の成績が、3勝2敗。この年だけは勝ち越して終わりました。

 将棋といへば、大山名人に(?) 「ゆで小豆」の缶詰を10個ほど頂いて、友人達に振る舞ったこともありました。名人戦が甲府でありまして、駅前で「大盤解説」があり、恒例の「次の一手」のあてものが有ったのです。その商品が「ゆで小豆」缶詰5個だったのですが、なんと、午前中の問題と、夕方の問題の2回、当ててしまったのです。正解者が少なかったのかも知れません。両方で10個になってしまいました。
 甲府の駅前に、「大道将棋」を出していた香具師とも仲良くなりました。何度か破って、ピースを頂きました。かれの話ですと、駅前や甲府銀座で、大道棋を破ったのが、私とA君だったそうです。香具師の家まで遊びに行って、「甲府で美味いもの、食べさせて」とねだりましたら、自家製の「ほうとう」をご馳走してくれました。暖かい思い出です。
 4年間の学生生活の時に、甲府市のアマチュア将棋の皆さんの教わったことも多かった気がします。そういえば、後の「米長名人」。当時小学校の1年生だったかな、もう少し上になっていたか?、将棋会で大人がきりきり舞いをさせられていました。
 次は、下宿生活の思い出を綴ります。

2017年10月12日木曜日

2017/10/10 My family History (13) 一修山慧居士 (其の4 大学生時代ー1)

 **大学生時代を書き始めたのですが、体力の低下が著しくなり、長時間入力が困難になって来ましたので、何回かに分けることにしました。分ければ、ダブりも出てくるかも知れませんので、気が付いたら修正加筆してゆきます**

山梨大学に入学して、本人はほっとしたのですが、学資を出してくれる母には、大変な負担をかけることになってしましました。つまり、生活費がかかるのです。最初の計算では、2500円の奨学金を貰い、8000円ほど補助して貰えば、何とかなるという計算でしたが、あとでよく考えると、当時の大学卒業生の初任給が、1万円程度だったのです。つまり、店を開いたばかりの母の立場で考えると、全然働かない大学生の新卒を一人雇ったことになりますから、大赤字です。これは大変な事です。

後年、倅がやはり地方大学に入って、その仕送りをするときになって、改めてその大変さを認識しました。

当初は、「学生寮」に入りました。1年半ほどして、「下宿生活」に移りますが、そうなると、送金依頼も増えて、12000円になってしまいました。アルバイトが予定通りに行かなかったというこも有ります。今のように多彩なバイトが無かったのですね。多いのは、所謂「家庭教師」。実は下宿生活になったときも、「家庭教師割引の下宿料」にして貰ったのでした。その時は、丁度近所に高校受験の中学生が3人いまして、面倒を見ましたが、上の二人を無事に希望校に入学させると、年下の子は、一人じゃいやだと、止めてしまい、生徒が途切れてしまいました。

話が飛んでしまいましたが、入学直後の「学生寮」に戻ります。昔陸軍の兵隊さんがいたという「旧兵舎」。二階建で、大部屋が並んでいます。多い時は一部屋4人になることもあったようですが、私の時は、3人部屋が多かったようです。同学年ではなく、学年の違う人達が一緒でした。

南側の窓に腰掛けて、鳳凰三山を眺めて過ごした時間・・・山に対するあこがれがすり込まれた時期です。武蔵野に育った木瓜爺には、茅が岳、八ヶ岳、南アルプスの山々は見た事もない風景でした。勿論冨士山も見えますが、甲府盆地からの冨士山は、6合目あたりから上だけしか見えません。お、今日は「瑞牆山」も見えるぞ・・なんて、北側の窓を覗きにいったり・・・碌に勉強もしないで、ぼーっと山を見ていた時間がどのくらいあったのか・・・

学問の方は、最初は順調でした。一年生というのは、教養科目というのでしょうか、語学、法律など一般的科目が多いのです。この種の教科には落とし穴が有るのです。何かというと講師がマンネリ化していて、毎年同じ事をしゃべって事足れりとしているのです。学生のほうも、単位を取るためにだけ講義に顔をだす。代返をたのんでおく。という流れで、遊びに出かける。試験の前には、代々伝わる先輩のノートをみて勉強する・・・試験問題まで伝えられています。年々同じような問題がでるわけですね。

遊びに行く先で一番多いのは、雀荘です。たまたま、木瓜爺は高校生時代に「賭けやインチキのない麻雀」を卒業?してしまっていましたから、誘われても出かけることは少なかったようです。

そんなわけで、1年生の時の修得すべき単位は、割合楽に取りました。ただ、第二外国語のドイツ語は危なかったです。語学には能力が無いようです。この1年で沢山単位を取ったことが、2年次の油断を生みます。









2017年9月30日土曜日

2017/09/30:My Family History (12) 一修山慧居士(その3 高校生時代)

 昭和25年3月23日、国分寺中学校を卒業した「チビ」は、昭和25年4月4月に、「東京都立立川高校」に入月した筈なのですが、関連する書類が残っていません。何とも不思議なのですが、卒業したときの「卒業証書」だけしか残っていないのです。
 この「立川高校」ですが、めまぐるしく名前が変わりました。新制中学になる以前は、「府立2中」「都立2中」です。東京の府立1中は後の「日比谷高校」、4中は「戸山高校」、「立川高校」も名だたるナンバースクールの一つでした。
新制の高校になった時が、「都立貳高」です。木瓜爺が最初に購入した学帽には、この「貳高」の徽章が付いていました。暫くして「立高」の徽章に変わったように思います。学生服の襟に付けたバッジは紫だったか? 一年上は緑でした。
当時の高校進学率は、まだ35%位だったように思います。兎に角、苦労らしい苦労もなく、進学してしまったもので、なにかふわふわした気分で、3年間を過ごしてしまった反省があります。本来なら、腰を据えて将来の進路について考えねばならなかった筈なのですが・・・
クラブ活動は、誘われるままに「地歴部」という、遺跡の発掘などをする部に名を連ねましたが、勉強するわけでも無く、部室で早弁をたべ、将棋の好きな友人と盤に向かう毎日です。残念ながら、将棋部がまだ無かったのですね。同学年で、一段棋力が上と見なされた3人の尻尾に加わっていました。他の二人は、チビよりも、終盤が強かったのです。この二人は、詰将棋の愛好者で、うち一人は、「詰将棋パラダイス」という専門の雑誌に作品が掲載される程の腕でした。この連中と付き合うことで、チビの棋力も格段に上がりだしたのです。つまり、「新作」に余詰めが無いかなど検討するからです。「余詰」というのは、作者が意図した詰め方以外の詰め方があったときの名前です。
学年での旅行・・遠足ですかねえ・・箱根の乙女峠を登りながら、彼らと「盤駒なし」の「脳内将棋」・・当時は「盲将棋」と呼んでいましたが、差別用語であるということになり、「脳内将棋」と呼ばれるようになりました・・を指したことを思い出します。
高校にいるときは将棋、土曜日の夜になると、中学生時代の仲間が集まって「麻雀」。麻雀を覚えたのは中学3年の頃ですから、面白い盛りが高校生時代だったのです。学生ですから、賭ける金などはありません。ノートを作って、成績を記録するだけです。
その時の採点法は、かなり工夫されたもので、大勝や大敗の運の要素を平滑化して行くような評価法になっていまして、一年も継続すると、実力的なレイティングが分かる物でした。ただし、大事な「つきを呼ぶ力」の評価に思い至らなかったのは残念です。分析力の不足です。
高校3年の運動会の仮装行列では、女装させられ「卑弥呼」になった写真がありましたが、自分でも区別が付きません。
そういえば、「チビ」と呼ばれなくなっていたのです。高校一年生の時に延びた身長が13cm、2年でまた7cm程延びまして、人並みになってきたのです。卒業の時には、165cm程になっていました。ただ、下半身のひ弱さは残っていまして、体力測定で100mを20秒もかかってしまい、本気で走っているのか!と、どやされました。
 高校の学業で、履修した学科を見ると、何かを考え始めたことは分かります。というのは、「理科」の科目は、「物理」「化学」「地学」「生物」と4学科全部受けています。反面「社会科」は「一般社会」と「日本史」しか受けていないのです。「世界史」を学ばなかったことは、後々、大きなハンデキャップになってしまいました。
 理系に進もうと考えたのだけれど、どういう専門が良いのか分からなかった・・と、云うことでしょうか。
大学への進学が現実の問題となったとき、頭に浮かんだのは、祖父「学柳明圓沙門」が在籍したという「蔵前」つまり、現在の「東工大」です。一方家族などの周辺からは、2年先輩に当たる叔父が、一浪して入った「東大」です。受験用の問題集などを見て、試してみると、どちらもハードルが高すぎることがハッキリ分かります。叔父の力をしても一浪、高校時代遊んで居た俺では3浪くらいしそうだ・・・めげました。
 我が家の経済力から考えると、浪人は出来ない、何とか早く社会人として給与を貰えるようになる必要がある。しかし、普通高校卒業だけで、すぐ就職しても、とても稼げる世の中ではないらしい。やはり専門性を持たないといけないようだ。当時、大学進学率は7%とか言われていましたが、実際は10%位はあったようです。
考えた末、表向きは「東大」「東工大」を掲げておいて、実際には一発合格の出来る地方大学を見つけよう・・・私立大学は学費が足りないだろうから、出来れば国立。とまあ考えが固まって来ました。とすると、今で云う一斉テスト、この年の呼び名は「インテリジェント・テスト」で、一発屋の運を試そう・・・中学の時の「アチーブメント・テスト」再現の夢に賭けたのです。
 運良く、試験場で隣の席になったのは、同級の割合気安く話が出来る女性でした。冗談を言いながら、リラックスした気分で、問題に向かいました。結果は、上出来でした。結果が分かったとき、クラス中がエーッと驚いたくらいです。立高全体でも、上位に入っていました。一発屋の本領発揮で、得た72点。
これを、有効活用するには・・・と、悩む前に、またまた幸運がやってきます。中学から立高へと一緒に進学してきた、つまり一緒に麻雀を研究してきた(?)親友が、「山梨大学」に行かないかと誘ってくれたのです。
一緒に調べて見ると、なんと、「インテリジェント・テスト」の点を5倍して加点してくれるというのです。前年の合格者の最低点は500点位のようです。72*5=360 何だ、あと、7科目(600点満点)だから、半分出来れば660になるよ。そのくらいはできるだろう・・・と、いわゆる滑り止めの学校は決まりました。
 「山梨大学」というのは、先だってノーベル賞を頂いた「大村智」博士で有名になりました。大村さんは、一期あとの後輩ということになりますが、彼が卒業した「学芸学部自然科学科」というのは、この年にはまだ出来ていませんでした。「学芸学部」自体は普通の中学までの教員養成機関で、むしろ昔の「山梨高専」から大学になった「工学部」のほうがメインでした。「工学部」のなかで私が選んだのは「電気工学科」。これから伸びる産業は、「電気通信」だと見込みを付けたのです。「学究」の為というより、将来の「就職」を睨んだ選択でした。
それは、さておいて、当時国立大学に関しては、受験日が二通りあり、一期校、二期校と呼ばれて居ました。一期校はどうせ落ちることは分かっていましたから、格好付けて、「東大受けたけど駄目でした」にしました。実際に受験してみて、問題の質自体が、2レベル違うなあ・・・という感想です。
「山梨」のほうは、前日胸部レントゲン写真をとる(試験の一部)があり、前泊になりましたが、宿舎は、大学で用意してくれた「青年会館」。都会とは違った田園に囲まれた場所。ゆったりとした気分で、受験できました。初日が終わった所で、試算してみると、もう合格ラインに届いているようでした。後は名前の書き忘れで0点を取らなければ大丈夫だ・・・。
昭和28年3月1日 都立立川高校卒業。この「卒業証書」が残っています。







2017年8月20日日曜日

2017/08/20: My Family History (11) 一修山慧居士(その2 中学生時代)

国民学校を卒業した「チビ」は、新制中学に進みます。卒業間際に、進学についての調査がありました。当時、ある程度の経済レベルを維持していた家庭ででは、海の物とも山の物とも分からない「公立新制中学」を嫌い、「私立中学校」に進学させました。「チビ」は、家の生活が苦しいことはよく分かっていましたから、「国分寺中学でいいよ」と、言い切っていました。多分、唯法徹心居士に「鶏頭牛尾」の話を聞いたのもこの頃だったのでしょう。
 で、前記の調査の時に、「国分寺中学に行くつもりです」と、担任の藤野先生に告げたところ、「そうか、行ってくれるか!」と、えらく感動してくださって、戸惑いました。なぜだったのかよく分かりませんでしたが、このブログを書くときに6年生の成績表を見ると、なんと、2学期3学期学年末と、全学科「優」だったのです。小学校の優等生を新設の公立中学校に送れるということに、何か意味があったのでしょう。この藤野欣三先生、後年国分寺第一小学校の校長になられたとかで、その歓迎のために同窓会を開くという通知が我が家にもあったそうです。所が丁度、木瓜爺が海外勤務の時で、日本におりませんで、お会いできませんでした。残念なことに、倅が、国分寺第一小学校に入学したときには、もう在職されていなかったようです。
国分寺には、所謂「高等小学校」・・「国民学校」時点でいうと「青年学校」でしょうか? ・・しか有りませんでした。それを吸収する形で、国分寺中学が誕生しました。1年生が中学としての入学、2,3年は小学校高等科のスライドです。小学校高等科は義務教育ではありませんから、人数も限られています。1年生だけが、大量に集められた中学です。先生の質も様々。青年学校時代の名残か、直ぐに体罰を与える先生もおりました。
残念ながら、尊敬に値する上級生には巡り会いませんでした。不良グループに直行する危険さえ感じました。それで、逆に同期生の結束のようなものは、割合早く出来ていったように思えます。
最初の一年は、小学校時代の顔見知り友達が、朝寄ってくれて、一緒に通学してしました。子どの足で40分ほど、畑の中の道を歩いて行きます。同年のちょっと不良懸かった子は、幸いに同じ町内でしたから、顔なじみで、いじめられることもありませんでした。「よう!」くらいで、別グループです。
最初は男女組でしたが、隣席の女の子に「きれいな手してるねえ」なんて握られて、どぎまぎしてしまったり・・・女の子はませているのだ・・・なんて思っていました。なんせ、クラスで前から2番目の「チビ」ですから、ペットだと思っていたのかも知れません。あ、思い出した、その子、教頭先生の娘さんでした。気っぷの良い姉御肌でしたねえ。でも、こちらから握ったら、退学!と、言われたかも知れません。懐かしい思い出ですね。
そのうち、「野球」が流行始めます。「六三制 野球ばかりが 上手くなり」などと言われた時代です。新制中学生は勉強が駄目な代わりに野球だけは巧くなった、という意味の冷やかしの川柳です。 流行ったといっても、最初の頃は道具さえ揃いません。器用な子は手作りのグローブで参加。「チビ」は幸いなことに、父親「唯法徹心居士」が米軍基地に勤めていたので、兵役を終えて米国に帰還する兵隊さんから、グローブ、ミットなどを貰って来てくれたものですから、道具所有者として仲間に入れて貰えました。困ったのは、ボールなのです。当時の軟式野球のボールは質が悪くて、すぐ割れてしまうのです。小遣いが溜まると、ボールを買ってくるのですが、手作りバットも混じる中での酷使にすぐパンク。終いには、手作りの硬球・・・少年硬球という市販品も出ましたが、それのイミテーションを作って来た器用な奴がいまして、重宝しました。ゴルフボールを芯にして毛糸を巻き、帆布のような丈夫な皮を着せたものでした。これは、変形しますが割れないので・・・・
体力に劣る「チビ」が、野球少年達の中で、存在感を維持出来たのは、実は「ルールブック」のお陰でした。審判をして下さる先生よりも、はるかにルールに詳しかったのです。試合中に、審判に抗議するのは「チビ」の役割。単純なアウトセーフは抗議しようもありませんが、守備妨害とか打撃妨害とか、ちょっとややこしいことになると、ベンチを飛び出し、やおら尻のポケットからルールブックを取り出して、食い下がります。面白かったです。
二年生になってからでしたが、転校入学の生徒が増えました。大陸から引き揚げてきた家庭や、国分寺に新しく出来た企業の住宅に移ってきた子供達ですが、おしなべて知的レベルが高く、遊んでばかりの「チビ」も少し勉強するようになります。先生も充実してきます。「チビ」は相変わらずチビでしたが、友達が変わって行きました。このころからの親友達10人は、(亡くなった人をのぞいて)今でも付き合っています。其の仲間が慕った上原先生もこの頃来られたのだったでしょう。卒業してからも、毎年正月に先生の家に集まって、遊んでいました。先生が亡くなられるまで続いたのです。通称「上原会」。皆が企業戦士であった頃は、情報交換の場でもありました。不思議な事に同業者がいなかったので、世間を知る良い機会として、勉強させて貰えました。
三年になると、元高等小学校の生徒は全部卒業しましたから、「進学組」「就職組」というクラス作りに変化して行きます。当時、高校への進学率は、まだ35%です。こうしたクラス編成も当然のことだったでしょう。
2年生の終わり頃からだったでしょうか、野球チームを3つ作りまして、リーグ戦などをしました。最初に出来たチームは、中学のチームと云える優秀なプレーヤー群、其の次のレベルのチーム、そして、好きだけどあまり上手くない第3のチーム。この第3チームの監督が「チビ」です。
第三のチームは、実力的にはとても勝てません。何とか引き分けくらいには持ち込みたい・・・・実際に何敗したのか覚えていませんが、念願の引き分けは一回記録できました。日暮れが迫った時、変化球投手を起用して、逃げ切った?のでした。このリーグ戦を中心にした「学球新聞」が発行されました。主筆が「チビ」。こういうの好きだったのですね。それで、後に、技術系の大学に進むというと、驚いたと云った人がいます。その方は、新聞など作っていたから、文化系に進むと思っていたそうです。
たいして目だたなかった「チビ」が、突然有名になったのが、高校進学のための「アチーブメント・テスト」でした。此のテストは、中学生の学力テストですが、東京都ではこの年が最初だったのか? 兎に角、この点と内申書で、公立高校の入否が決まると言われました。
受験場は府中でしたが、詳しい記憶がありません。
「チビ」の成績は、国語96、社会92,理科85、数学97 合計370。
当時、父が中学校の説明会で聞いたらしい各高校の安全ラインの記録がありました。立川280、国立260、小金井240、五商240、二商240。どこでも大丈夫だと言われたようです。
このこと自体は、たいした事ではないのですが、国分寺中学からの受験者の平均点は、多摩地域に3年前に作られた新制中学のトップだったのだそうです。個人ランキングで、「チビ」は、同地域の第3位だったといいます。突如「天才」の仲間入りをしてしまいました。そんなことから、中学校から頂いた表彰状が「善行賞」。この賞状が面白いのです。「右者頭書のの善行につき本校行賞規定に依り之を表彰する」。肝心の頭書は空欄なのです。どうやら、国分寺中学の名前を世間に知らせたという善行だったようです。
この国分寺中学の平均点アップに寄与したのが、先ほど書いた「上原先生」の「社会科」補修講義でした。「ヤマがあたった」という状態が発生したのです。試験の前日だったか前々日だったか、下校しようとしている時に、「すぐ教室にもどれ、教えるのを忘れていたことがある」と、呼び返され、ふくれっ面で聞いた部分が、出題されたのです。試験場で問題をみて、思わず顔見合わせてニヤリだったのでした。恐らく全員10点近く稼いだでしょう。
 このアチーブメントテストで、好成績を得た「チビ」、こういうテストに結構自信を持ったのかも知れません。3年後にも奇跡(?)を起こしてしまうのです。

2017年8月6日日曜日

2017/08/05: My Family History(10) 一修山慧居士 (その1 小学生時代)

木瓜爺が、自誓戒名として決めた「一修山慧居士」、一生修行し山(自然)の英知を学びます といった意味合いです。
誕生は昭和9年(1934)12月25日。クリスマスの生まれなので、クリスマス・プレゼントでだいぶ損したようです。つまり誕生日のお祝いと別々には貰えないので・・・

生まれた時から、虚弱児童・・特に運動が苦手でした。幼い頃は左足が細かったのです。小学校に入る頃には、ほぼ左右揃っていましたが、運動音痴といいますか、自転車にはいつまで経っても乗れませんでしたし、泳ぐことも出来ませんでした。この自転車に乗れなかった原因は、三管器官の発達不良(平衡感覚が劣っています)にあったのかも知れません。小学校に上がるまでは、殆ど友達がいませんでした。幼稚園にも入れて貰えず(戦前ですから、当時は幼稚園に行けるのは、良いとこの子供、と思われた時代です)、家では一人で遊んで居ました。玄関の横から庭に行ける路地が作られていましたので、そこで遊んでいました。家の中にいるときは、本を見ていることが多かったと思います。「科学」を「漫画」で解説した本が大好きでした。ですから、小学校一年生としては、知識的には大天才?になっていました。

「昭和16年4月:大阪市東住吉区 田邊国民学校 に入学」 一年生の時、長谷川先生という女性の先生にかわいがっていただきました・・えこひいきというのではなく、それまで集団生活をしたことの無い、身体の弱い子供ということで、よく面倒を見てくださったのでしょう。そして、12月8日、戦争が始まりました。
2年生になると、担任が替わりまして、やはり女性の先生でしたが、この方は怖かったです。つまり、普通に扱われ始めたということでしょう。3年生になって、男の先生になりますが、名前以外は、あまり覚えていないのです。そう、3年生の時に水泳が始まったのでした。1,2年はプールの無い分校の方に通っていたのですが、3年で本校のプールで泳ぐことになったのです。短辺側が11mだったのですが、それを泳ぎ切れません。コンプレックス誕生の年でした。そうそう、2年か3年生の時に「クレヨン画」で賞をもらった事があります。1年生の時は、所謂「坊ちゃん刈り」だったのですが、戦争が始まってから、丸坊主になりました。家の縁側で、母が編んだ毛糸のセーターを着た姿のまま、バリカンで坊主刈りにして貰ったのですが、その姿を空中から眺めているみたいな構図で、絵に描いたのです。そんなことを何故覚えているかというと、其のセーターが「余った毛糸」と使って編んだものなので、色とりどりの横縞・・一番上は何色だったかなあ・・と、考え考え書いたものですから、記憶に残っているのです。そして、12月末、東京に出て来ます。
「昭和19年1月 東京都中野区新井小学校 に転校」 。新井で住んだ家は、変わっていました。一階と2階が別の住まいなのです。我々は最初2階の家に入りました。東京は寒くて、風邪をこじらせ、気管支炎になってしまい、学校は長期欠席です。続いて妹がジフテリアに罹って入院。母は妹について行って留守になりました。夜のご飯を炊くのは木瓜小僧の役割、父が勤めから戻っておかずを作ってくれます。
この、留守番生活小僧を見舞いに、母の弟が来てくれたことがあります。彼も実は結核療養中だったのですが、子供はそんなことは知りません。喜び勇んで、家の中でチャンバラごっこ・・そうしたら、おじちゃん突然血を吹いて・・ビックリ。この木刀切れるなあ!  隣の家で電話を借りて、病院に連絡・・妹が入院していた病院に、やはり母の妹が薬剤師として働いていたのでした。
というような、めまぐるしい生活を、半年ほどしまして、「昭和19年8月 国分寺第一国民学校 に転校」。「国分寺」での生活が始まりました。
今にして思うと、この国分寺第一国民学校の生活は、今で云う「いじめ(られ)」の連続でした。そう、被害者側なのです。しかし、登校拒否なんて状態にはないりませんでした。だって、日本は戦闘中です。そんなヤワなことを考えることはありませんでした。子供心に、覚悟をしていたのは、田舎に多い「都会ッ子いじめ」です。文化の違いがありますから、これは仕方が無いことでしょう。当時の国分寺は田舎も田舎、「だんべー」言葉の田舎です。標準語を使うと、異端兒扱いされるのが当たり前の世界。ましてや「大阪弁」の残る「チビ」がやってきたわけですから、良いカモ・・・所が、実際に、いじめられたのは、東京の区内から疎開してきた子供によってでした。つまり、転校生のグループの中の弱者として扱われたのです。
「疎開」という同じような背景によって、国分寺にやってきた転校生達は、住んだ場所も同じような区域でしたから、下校は一緒に帰ることになります。当時は、いつ警戒警報のサイレンが鳴るか分からない時代でしたから、なるべくまとまって登下校を行っていたようです。転校間もない頃は登校の時は、地元の子供達に連れて行って貰ったようです。帰りは、学年によって違いがありますので、前述のように、同級の転校生仲間と帰ります。この下校時がいじめの時間になりました。「チビ」という仇名がすぐ付いたほど身体が小さいものですから、反撃してこないという安心もあったのでしょう。年の割に老成していたチビですから、遊びの範囲として、大抵のことは許容していました。それが限度に達したのは、学期末の成績表を奪われた時です。いきさつは良く覚えていませんが、転校後の事ですから、お互いの学力も良く分かっていません。多分成績表の見せっこをしたのでしょう。 チビの成績表は、背の高い奴の手から手に渡って、返さないのです。時間にして、どのくらいだったのか、遂にチビも泣き出してしまいました。勿論成績表自体も くしゃくしゃ・・・隠しようもないので、親にも一切を説明しました。母は、受け持ちの先生に訴え、いじめっ子は、廊下に立たされる という罰を受けました。当然、この子達とは断絶。一緒に帰らず、別の道を通って下校するようになりました。この新しい道の方に住むFという子とも知り合います。これが、次のいじめっ子になるとは露知らず・・・
戦局は日本敗戦の道をたどります。防空壕に入っていたら、「焼夷弾落下!」の叫び声に、ビックリして飛び出したら、頭の上、空一杯に、赤、黄、青の光が散っていて、それがガラス窓にも映って、その綺麗なこと・・・落ちてくる焼夷弾を下から見上げていたのです。この時は、「唯法徹心居士」の所で書いた「寄宿舎」に移っていたのですが、焼夷弾は風に流されたのか、国分寺で最初に住んだ家の場所に落ちました。牛込から疎開してきていた母方の祖父、「高山端午」は、玄関の屋根を突き破って落ちてきた焼夷弾を素手で拾って、道路に放り出し、火災を免れますが、焼夷弾の炎を全身にあび、大火傷を負います。この時の火災の様子は、約1km離れた「寄宿舎」の所からもよく見えました。そして、火傷を負った祖父が、逃げてきて「一法開心大姉の名前を連呼して助けを求めていた事を思い出します。我が家に伝わる秘伝の「お油」(真言宗醍醐派の高僧による祈祷を受けた護摩油だったと記憶しています)を塗って、ガーゼで覆って・・・治療法としては現代では良くないと云われていますが・・・体面積的には死んでもおかしくない範囲の火傷でしたが、奇跡的に一命をとりとめ、復活しました。
昭和20年8月15日 5年生の夏、敗戦の日を迎えました。これからどうなるのか・・本土決戦になったら、どこに逃れてゲリラ活動をすればよいのかと、考えていたことは消えました。日本人はどうなるのか、奴隷にされるのか、でも、毎日防空壕に潜る生活からは解放されたのだ・・・なにかホッとした気持ちもありました。
秋に入って、5,6年生が大八車を押して、旧日本陸軍の倉庫から、文房具を払い下げて貰って来ました。それらは、全員に配られましたが、品質は粗悪。鉛筆などは、いわゆる折れ心で、削ると折れた芯が抜けてきて使い物にならない物でした。こんな物を作っていたのだから、日本が負けるのも当然だなあと納得出来ました。ものを作る以上は、品質のよいものでなければ、なんの意味も無い、と、幼心に焼き付きました。
6年になると、国民学校で兵隊さんが兵舎に使っていた教室に6年生が入る事になり、大掃除をしました。床にはノミがぴょんぴょん跳ねていて、足に飛びついて来ます。それを慣れた手つきでつぶして・・・
その大掃除の最中に、Fがいじめを始めたのです。切掛けは何だったか忘れましたが、多分Fの悪ふざけに「チビ」が堪忍袋の緒を切ったのでしょう。とっくみあいの喧嘩になります。クラス一番の「チビ」と、クラス1,2を争う「ノッポ」の喧嘩です。しかも、Fは、柔道をやっていたようで、巴投げでチビを放り投げます。 クラス中が周りを囲んで面白がって見ています。体力的には喧嘩になりません。捕まって頭を抑えられ、身動きも出来ません。手足を振っても、パンチは届きません。何とか反撃したい!
目の前に「ノッポの臂」が来ています。戌年の「チビ」です。最後の武器に気が付き、 「ガブッ」その臂に食いつきました。噛みちぎる勢い。形勢逆転・・ポカポカ顔を殴ってきますが、殴られる度に、そのショックで、歯が食い込みます。殴られて、鼻血も出ましたが、それも相手の臂の所に流れて行くので、まるで嚙まれて出血したように見えたでしょう。とうとう敵も泣き出しました。かくて、此の喧嘩は引き分け・・・そして、「チビ」へのいじめも無くなりました。
この頃の喧嘩は、相手の内臓を痛めるような「けり」は、まず出なかったように思います。誰でも蹴るようになったのは、プロレスが流行してからでしょう。
「いじめられる」ということについては、これらの事件で、かなり耐性が付きました。

昭和22年3月 国民学校卒業。 4月からは「小学校」に戻ります。つまり、「チビ」は、小学校を出ていないのです。国民学校に入って、国民学校を卒業しました。
成績表は、紛失した年もあるようですが、一応残っています。4年生までは、休みも多かったのに、優が並んでいます。
次回は中学時代を思い出しますが、まだ「チビ」の名前が続きます。

2017年7月25日火曜日

2017/07/25: My Family History(9) 一法開心大姉

「唯法徹心居士」の妻、「一法開心大姉」は、木瓜爺の母です。
出家から還俗して始まった「村岡家」とは違って、先祖代々の系図がある「高山家」の分家に産まれています。「一法開心大姉」の兄にあたる方から頂いた「略系図」によると、「元寇」の時に、名を挙げた四国の水軍、「河野通有」の孫 通直が、「高山(こうやま)家」の初代だそうで、十一代目の高山萬助通永の弟「高山久五郎道廣」が分家したようです。この道廣の次男「端午」という人が、木瓜爺の母方祖父にあたります。「端午」の兄の娘が、外交官の「都倉栄二」氏に嫁入りし、その子供が「****」氏なのだと聞いてびっくりしました。有名人が親戚だったのです。

 この母は大正四年七月二十九日の誕生ですが、当時の戸籍では、「高山久五郎」を前戸主とした戸籍(愛媛県周桑郡福岡村大字丹原、)に記入されており、そこでは「光子」と記載されています。ところが、次の「高山端午」を戸主とした戸籍(愛媛県周桑郡丹原町)では、「光」の一文字になってしまっているのです。当時は、全て手書きの書き写しですから、こうした誤りというのは、やたらにあったようです。
このあと、「高山端午」は、兵庫県武庫郡西宮市に移っています。詳しい事は知りませんが、回船問屋つまり船を使った運送業を営んでいて、たいそう羽振りも良かったようです。「光(てる)」は、お嬢様として育ちました。ところが、鉄道の発達によって、状況が変わります。船自体も、大型船に変わっていったでしょう。回船問屋としては、閉店の憂き目を見ることになりました。「光」は女学校中退で働くようになります。
その職場の上司として、「唯法徹心居士」に巡り会ったのですが、入籍の時期からみますと、今で云う「出来ちゃった結婚」のようです。なにしろ、三ヶ月後に、木瓜爺が誕生してしまっています。
 木瓜爺が生まれた時、「唯法徹心居士」はあまり喜ばなかったといいます。其の理由は、木瓜爺の左足が異常だったのです。右足に比べて、細くてしかも痣のように血管が浮いて見えたからです。奇形児ではないかと思ったのでしょう。こういう子供が生まれた理由は、「帯を強く締めすぎていたからなんだよ」と、母は説明していましたが、何故、帯を強く締めなければならなかったのかという点については説明しませんでした。木瓜爺がそれを理解したのは、この戸籍簿を見たときです。つまり、職場で、妊娠していることを隠したかったのでしょう。木瓜爺の左足のハンデは、ずっと続きました。小学校に入った頃から、殆ど半ズボンを穿いていません。今でも、左足の膝には、紫色の帯? 血管が目だちます。特に寒い季節には、まるで内出血しているように見えます。見た人に不快感を与えるだろうと、プールで泳ぐとき以外はずっと隠していました。
  本題に戻って、大阪在住時代の「一法開心大姉」は、「唯法徹心居士」の中国単身赴任の時期を挟んで、木瓜爺を育てます。姑と小姑のいじめ?に苦労したでしょう。
 木瓜爺の弟(「良仁瓔児」)を死なせたことも悲しい出来事でした。幸いにそのあと、妹が生まれました。妹は木瓜爺の5才下になります。「一法開心大姉」の晩年、この妹がずっと面倒を見てくれました。木瓜爺は、資金調達だけです。
 東京の戦後の生活では、「一法開心大姉」が一家の金主になります。山野美容学校に通って「美容師」の資格をとり、最初は住み込みの美容師、後には三鷹で自分の店を開きます。この店が、小規模ながらほぼ順調に経営できたおかげで、木瓜爺は大学にも行けました。
思い起こすと、パーマネントの世界にも、技術革新がありました。最初は「電髪」などと言われる、髪をカールさせるロット(軸だと思ってください)に巻き付け、電気のヒーターで乾かすという方法でしたが、やがて「コールドパーマ」という方法に代わります。これは、特殊な液体を使って、ロットを巻き、温風で乾かしてゆく方法です。この特殊な液体が、美容師の指を侵食?するのです。湿疹を起こすのですね。「一法開心大姉」は、この湿疹に悩まされました。手伝っていた妹も体質的には当然似ていますから、同じ悩みにつきまとわれます。だんだん改良はされてゆきましたが、一時は見ていられない惨状でした。そんな手を客には見せられませんから、ゴム手袋をはめていますが、手袋の中は高温多湿、良くなるわけがありません。
 「唯法徹心居士」が、還暦で旅だってしまうと、「一法開心大姉」も相当ショックを受けたと思いますが、木瓜爺の子供達つまり孫達と遊ぶのが一つの楽しみになり、休みの日には、孫達を連れて遊びに出かけてくれました。しかし、是が木瓜爺夫婦にとっては一つの困ったことになります。丁度、木瓜爺は、単身赴任で香港に行っており、家内が子供達を抱えて苦労していたわけですが、休みの日に、知らない間に孫をつれて出てしまうというような事が起こったようです。多分、情報交換不足だったのでしょう。そして、遊びすぎた孫達が、翌日熱を出して医者通い、という悪循環のサイクルに飛び込んでしまいます。
このままでは、子供を殺されるなどと、家内も精神的に参ってきて、別に暮らそうという発展に成って行きます。いろいろ重なって、木瓜爺一家四人は羽村に移ります。
そのあと、妹の結婚話がまとまり、店を閉じて、「一法開心大姉」は、国分寺の自分で立てた家に一人暮らしの形になります。一人だけでは、心配もありますので、家内の弟一家に、木瓜爺が住んでいた部分で暮らして貰うようになりました。
この時期、「一法開心大姉」は、借りていた店の大家さんと、観音霊場巡りなどをしていたようです。秩父霊場を繞った御朱印帳などが残されており、後に木瓜爺の秩父フォトウォークへとつながって行きます。
ただ、これらの交友関係がもたらした負の遺産も残されました。株で儲けた僅かばかりの金を例の「原野商法」に引っかかって、始末できない土地を買ってしまったのです。この負の遺産、木瓜爺も妹も悩みの種になっています。母としては、子供に土地をプレゼントしてくれたつもりなのですが、処分出来ないのです。市町村に寄附しようとしても、そんな使えない土地はいらんと云われてしまいます。これを種に、更に詐欺行為を働く連中もいるとか(処分してやるから金を出せというタイプ)聞きます。努力していますが、此のぶんでは、孫の代まで負の遺産として残りそうです。
「一法開心大姉」が、六十になり、年金を少々頂けるようになった時、80以上まで生きられるなら、直ぐに貰わずに五年後から貰うようにした方が得だよ、と説明したのですが、そんなには生きられると思えないから、直ぐ頂くと云いました。これは、誤判断でした。九十四まで生きたのですから、かなり損したようです。
そのあとすぐ、国分寺の家を建てていた土地が、再開発されることになり、自分の土地ではありませんが、二十五年以上住んでいましたから、地上権を補償金として支払って貰えることになりました。交渉には木瓜爺が当たりましたが、借財を残して死んだ「唯法徹心居士」の遺産が「地上権」としての蓄財だったのです。この臨時収入のお陰で、「一法開心大姉」の新しい家を八王子に求めることが出来ました。同じ土地の一部を使っていた「唯法徹心居士」の弟も、川越にマンションを買って移ることが出来ました。住んでもらっていた義弟にも、通常の立ち退き料の数倍の金を渡して、引越をさせました。
「一法開心大姉」の新居を八王子にしたのは、妹の嫁入り先が八王子であり、面倒を見て貰うのに都合が良いからでした。同居という事態も考えて、妹も自分の取り分から、購入費を分担しました。木瓜爺は、この家に関しては相続しないからということで、購入資金は出さないことにしました。実際には、生活資金のほうで援助はしていますが・・
こうして、七十二才で、「一法開心大姉」の新生活が始まりました。引っ越した頃は、散歩などもよくしていました。娘の方の孫達を育てる手伝いも楽しかったようです。八十八才の米寿の祝いをした頃は、まだ杖を使って歩いていましたが、歩く事がだんだんできなくなると、急速に衰えてきます。
一法開心大姉1 九十を過ぎて、入院を要する病も発生するようになりました。体調を崩して、そろそろお別れかと「ひ孫」をつれて行くと、ひ孫に元気をもらって、回復するということもしばしばありました。しかし、木瓜爺も七十を過ぎて年金だけの生活になったので、仕送り額も段々減少。生活基盤も縮小せざるを得なくなり、木瓜爺が、もう仕送りが困難になったよ、母さん自分の年金と預金で暮らせるかい・・・と、云ったら、直ぐに亡くなってしまいました。年末に入院し、正月にひ孫が見舞いに来てくれたのですが、生憎と「子供」は面会謝絶(インフルエンザなどの予防)といわれ逢えませんでした。もし、逢えていたら、ひ孫パワーで、もう少し生き延びたかもしれません。
 「唯法徹心居士」に「後を頼むよ」と言われた木瓜爺、たのまれたことを、やり終えたのでしょうか? 「一法開心大姉」は、遺産と云うほどではありませんが、墓を作る費用は、きっちり残してくれていましたから、それを使って、八王子の浄泉寺に新墓を作り、大阪の菩提寺から「学柳明圓沙門」「元柳明美大姉」「芳桂院小丘大姉」「唯法徹心居士」「良仁瓔児」を引越させて、一緒に葬りました。この墓は、Familyの墓なのです。
 「一法開心大姉」という戒名は、「唯法徹心居士」の名を頂いた時に、同時に頂いた戒名なのですが、なぜ、「光法開心大姉」にしなかったのか、疑問です。考えられるのは、「光」という字が、子供の戒名に使われる文字らしいので、避けたのかなと想像しました。墓石には「光陰」という文字を彫りました。「命は光陰に移されて、暫くも停め難し」という修證義の経文の語に、「光」の名は、隠れているのだよ・・という意味を含めています。

2017年7月22日土曜日

2017/07/22: My Family Story (8)  唯法徹心居士 その3

二代目「唯法徹心居士」が、三代目となるであろう若き日の「一修山慧居士」の進学や就職のときに、繰り返し云った言葉があります。
正しくは「寧為鶏口 無為牛後」 史記の蘇秦傳に出てくる言葉ですが、日本流の格言としては「鶏頭牛尾」と云われています。「鶏頭となるも、牛尾となるなかれ」です。

こういった裏には、自らの信念があり、それを継いでほしかったのでしょう。「一修山慧居士」が社会人となり、その妹も母の「一法開心大姉」が開いた美容院を助けて働くようになると、「唯法徹心居士」は、自分の夢に挑戦する気になります。規模は小さくても、自分の思い通りに仕事をしたいという夢です。それは、意外とも思われる分野でした。
 幼児の為の遊具作りなのです。当時幼稚園や保育園の必要性が高まっていましたから、着眼点としては悪くなかったようです。
 学歴としては文化系ですが、趣味的には、結構科学系にも詳しく、写真では、ガラス乾板に感光乳剤を塗って、フィルムに相当するものを作って使ったり、現像薬を自分で調合し使っていました。引き伸ばしも自宅でやっており、木瓜爺は見て覚えました。
 戦時中に自宅で使っていた「高一のラジオ」(当時のラジオは真空管式ですが、4本の真空管が使われていたので、並四 と呼ばれており、もう一本真空管を増やして高周波増幅を付けた感度のよいのが 高一 だったのです)は、自作の物でした。戦争の末期から戦後にかけては、子供の木瓜爺こと「一修山慧居士」に、変圧器を作らせたり、電動機を作らせたり・・・そういう材料をどこからか見付けて来ては、参考書と共に子供に与えていたのです。
残念なことに、純技術的には力不足で、ちょっと巻き線が細すぎ、完成した変圧器を使ったら、熱を持って煙が出て来て、大慌てになりました。危険でしたが、面白かったです。木瓜爺つまり「一修山慧居士」が、大学に入るとき電気科を選んだのは、こういう子供の頃の工作体験があったからでしょう。
話を戻しまして、「唯法徹心居士」の作った遊具というのは、例えば、幼児が2m程離れて向かい合って腰掛け、足元のペタルをこぐと、メリーゴーランドのように回り出すというようなものです。安全性などに工夫の余地は有りましたが、電気のような動力を使わず、子供自身の力で動きを造り出して遊ぶものが多かったように思います。
いくつかの特許をとって、数人の職人さん達との会社を作り、商品化し、全国の幼稚園などを回って売り込みました。遊具などのない新設の幼稚園や保育園では、当然欲しがります。納品まではほぼ順調にいったのです。ところが・・・金を払ってくれないのです。これらの幼稚園や保育園は、市などの助成金が頼り、助成金がでたら払います・・・で、引き延ばすわけです。全国販売をしたものですから、集金に行く費用だけでも大変、行っても払ってくれない・・・忽ち、資金繰りがショート。あえなく、倒産です。
「唯法徹心居士」の夢は、数百万の負債を残して消えました。残念だったろうと思います。残された人生は、サラリーマンに戻り、この負債を消すことに使われましたが、利子支払いが精一杯、最初に借りた元金の部分は「唯法徹心居士」の死後、「一法開心大姉」と「一修山慧居士」で、返済処理をしました。
この二代目の失敗を見て、三代目「一修山慧居士」は、鶏口となるのは、技術だけでは駄目だ、経営学、経済的知識、人間などの総合的な理解力が必要なのだと知り、自らの方向転換を図ります。
「唯法徹心居士」が「お爺ちゃん」になって2年目、還暦の祝いに、「一法開心大姉」と夫婦旅行をしていらっしゃいと、子供二人が、周遊券と宿泊券を用意して、伊豆の旅行に送り出しました。これは嬉しかったようで、戻ってから、旅の様々の夫婦げんかを披露してくれていました。ところが、春の初め、夜になるとひどい咳をするので、老人性結核だと、孫に移してしまうと大変だと受診することを奨めたところ、本人は武蔵境にある日赤結核病棟で検査を受けます。この選択が、彼の最後の不運だったのです。肺癌だと思わなかったのは、前年に肺癌で死んだ「芳桂院小丘大姉」の場合と、出現している症状が全く異なっていた為でした。
日赤で撮した胸部レントゲン写真を借りてきた事がありますが、別の病院のベテラン医師は、一目見て、「これは肺癌だよ、この大きさなら手術で取れるかもしれない」・・・しかし、日赤の結核専門医は、入院させてパスか何かを飲ませていたのです。この間約一ヶ月。ピンポン球より小さかった癌組織は、こぶし大に育ってしまいました。これは、結核非ずと、がんセンターで再検査し、肺癌と言われましたが、ベッドがなくて収容出来ないというので、別の病院を見つけ、転院させたのですが、特すでに遅しでした。そういえば、この手術の時、輸血する血を、木瓜爺の勤務していた会社の方がたに献血していただいて助かりました。十分なお礼も言えず、そのままになっていたことを、今頃思い出しました。本当にありがとうございました。
手術直後、摘出した肺の患部を指でおして、正常部分との堅さの違いを知りました。このとき、ずばっと聞きました。「あと、何ヶ月ですか?」 つられた医師が「三ヶ月です」、すぐ慌てて打ち消しましたが、覚悟しました。
手術後に、段ボールの切れ端に本人が書き残した句がありました。
「肺ひとつ、捨てたる秋の 夜長かな」 悲しい句です。 
一時は退院出来るかなと思った程度の回復に見えたのですが、十一月の終わりに、腹部にもっこり腫瘍が現れました。転移再発でした。亡くなる一週間ほど前、まだ、33才だった木瓜爺の手を握り、「あとをたのむよ」と言い残しました。これから、少しのびのび遊んで貰おうと思っていたのに、早すぎる旅立ちでした。
「あとをたのむよ」と云った責任上、母が亡くなるまで、ずっと木瓜爺の健康を守っていてくれたようです。節煙はしたけれど禁煙まで行かない木瓜爺が、肺癌だといわれずに済んでいたのですから・・・
次回は、、「一法開心大姉」の方を、さらっと書きます。






2017年7月12日水曜日

2017/07/12 My Family history 〔7〕 唯法徹心居士 その2

「大東亜戦争」と呼ばれた戦争が始まる少し前に、任期を終えて中国から戻ってきた父は、家族サービスにも精を出してくれたようです。夏に、六甲山の別荘を借りて、避暑に連れて行ってくれたり、奈良の若草山で遊んだり、幾つもの思い出が重なってきます。大和川に釣に連れて行ってくれたこともありました。
 唯法徹心居士は、趣味もいろいろあったようですが、その中で、釣と写真が双璧だったようです。写真に関しては、木瓜爺がブログに取り上げたような、Auto Grafrex など何台かを所有しており、アサヒカメラに投稿して、何回か賞を頂いたようで、入賞のバッヂなどが残っています。釣の方は、竿を何本も持っており、休みの日に座敷で手入れをしていたことを記憶しています。

写真の方は、木瓜爺に遺伝(?)しましたが、魚釣りのほうは、全然駄目でした。平和な生活が乱されたのは、開戦です。その前から、愛する中国を侵略する日本軍に心を痛めていたようですが、米英との開戦で、より切実な不安が唯法徹心居士を捉えました。まだ、三十代の半ばでしたから、「招集令状」が来るかも知れないという不安です。たまたまなのですが、外国語専門紋学校当時の学友が、東京で「工場」を継ぐことになり、手伝ってくれないかという誘いがあったようです。其の工場は、飛行機の部品を作る工場でした。唯法徹心居士はこの誘いに乗ります。武器の製造と云う部分では若干の抵抗はあったようですが、「軍需工場」に務めるということは、「招集」が直ぐには来ないという思惑が働いたのでしょう。
かくて、木瓜爺一家は、「大阪」より危険と言われた「東京」に、引っ越すことになりました。年末でした。父と私が先発。夜行列車で東京に出て来ました。数日後、母と妹がやってきました。最初は、中野区新井薬師に借家しました。東京の冬は寒く、木瓜爺は気管支炎を起こして、何日も学校を休んでしまい、新井小学校の事は殆ど記憶にありません。木瓜爺の気管支炎に続いて、妹がジフテリアで入院。東京の生活は、苦難の道で始まりました。
中野というのは便利な場所ですが、東京空襲が起きるとささやかれていました。もう少し田舎のほうが安全だろうと、唯法徹心居士は、工場があった「国分寺」に空き屋を探します。そして、見つけたのが、近々郷里に四国に疎開するから、この借家を譲ってもよいという方。荷物を四国に送り出して一部屋使えるようにして下さり、大家さんの了解を得て、四畳半に親子4人で暮らすことになりました。台所も、便所も共有ですから、大変でした。しかし、何日もかからず、四国に引き上げられましたので、全体を使えるようになりました。この家が、国分寺の本多新田にあったのです。
引っ越した翌年、東京大空襲で、中野で住んだ家は焼けてしまいました。この直前でしたが、牛込に住んでいた母の実家が、国分寺に疎開したいと云いだし、借りていた家を引き渡して、一家は社宅に移ります。この社宅はなかなか良かったのですが、経営者の親戚が疎開してくるということで、またまた追い出され、すぐ前にあった寄宿舎に移って、管理人を兼ねることになりました。大阪に残っていた祖母と伯母も上京してきてここに住みます。唯法徹心居士の弟は、学徒動員から、招集と続いて、習志野の基地に勤務するようになっていました。本土決戦に備えて、対戦車の迫撃砲の練習をしていたようです。戦争は、玉砕が続くようになってきていました。「寄宿舎」に入っていた若い工員さんは、すでに招集されてしまい、二世帯ほどが残っていただけでした。木瓜爺の立場でいえば、部屋が沢山有って遊ぶのに都合が良い・・でしたが。「終戦の詔」を聞いたのはこの「寄宿舎」の庭でした。
「唯法徹心居士」は、工場長でしたから、これからまた一苦労も二苦労もすることになります。工場は無論閉鎖。収入0です。細かいことは分かりませんが、何人かの人と、工場に残っていたアルミ材などを内緒で使用し、ライターなどを作って換金したりしていたようです。工場の庭にあった「矢場」を、開墾して、野菜やいもなどを作って分けたりもしていました。
立川に米軍基地が開設されると、英語が話せる唯法徹心居士は、警備の仕事にありつけました。これは、駐留米軍の縮小まで続きます。しかし、それだけでは一家が暮らす費用には不足しますので、後に「一法開心大姉」となった母は、美容師の資格をとり、住み込みで働くようになりました。復員した叔父も、民間の会社に勤務しました。
終戦時に五年生であった木瓜爺も、昭和22年、新制中学に通い始めます。暮らしは楽ではありませんでしたが、それなりに、落ち着いた日常が戻り始めました。しかし、住まいの方は、また明け渡しに迫られます。
裁判などで、粘りながら、唯法徹心居士、一法開心大姉の夫婦は、借家でない自分たちの家を建てようと決心するのです。昭和25年、住宅金融公庫が発足しました。この制度を利用して、昭和26年、国分寺駅の直ぐ近くに、25坪(当時の公庫の融資基準はこの程度の大きさまでだった)の家を建てました。土地は買えないので、借地です。
木瓜爺とその妹が中学を卒業するまでに、唯法徹心居士は、PTAの役員を二回やっています。最初の時は、木瓜爺の卒業の時に「感謝状」を頂いていますから、新制中学を整備するお手伝いをしたのでしょう。妹の時は、修学旅行に行けない貧困家庭の子供達も参加させたいと、農家や造園業を営む父兄に働きかけて、植木の苗木を寄附していただき、中学校の校庭を使って、植木市バザールを開催し、売上を、その子供達の旅費にあてて、感謝されたと聞いています。
招集令状から逃れる為に、軍需工場路線に乗り換えた判断が正しかったのかどうか分かりませんが、一度だけ、ちょっと淋しそうな顔を見せたことがあります。若い時に務めていた高島屋が横浜に開店した頃だったか、新聞を見ていて、彼が取締役になったのだなあ・・・と、つぶやいていました。そして、木瓜爺が、仕事で悩み、いっそ止めてしまおうかと思ったとき、「じっと我慢して時を待つのも選択肢の一つだよ」と教えてくれたことがありました。
このあと、唯法徹心居士は、暖めていた夢に挑みます。









2017年6月30日金曜日

2017/06/30 My Family history 〔6〕唯法徹心居士 その1

「学柳明圓沙門」の長男、「芳桂院小丘大姉」の弟 に当たる「唯法徹心居士」は、村岡家の二代目に当たります。
この人は、木瓜爺の父ですが、記録に残るような業績は残しておりません。ですから、文字になるのは、これが最初かも知れません。
戸籍謄本から始まります。 俗名は『村岡唯矣』 『大阪市東区東高津北之町九十五番地に於いて 明治四十年五月十三日出生 父村岡明圓届出 』 此の後は、記念品的に残っていた、様々の記録をつないで行きたいと思いますが、逆によくまあこんな物を残してあるなあと感心されるかも知れません。多分、「唯法徹心居士」の母、「元柳明美大姉」が大切に残していたのでしょう。

大正三年四月 に、『大阪府大阪市道仁尋常小学校に入学』したようで、 大正四年三月に第一学年の修業証書と優等賞で紙挟壱個をいただいています。大正五年三月二十四日には、第二学年の修業証書と優等賞で鞄壱個。面白いなあと思ったのは、修業証書の裏面に「第一期種痘完了大正三年四月五日」という証明がされている事です。これが、翌年、つまり第三学年の修業証書の裏面には、「第二期種痘完了 大正六年三月十二日」と追加されています。調べて見ると、木瓜爺の国民学校修了証書にも同じような証明書が付いていましたから、制度として行われていたようです。そして、「優等賞」のほうは「算盤一面」。
第四学年になりますと、転校していまして、大阪市天王寺第五尋常小学校になっていますが、ここでは、「純銀賞牌壱個 硯箱壱個」これも優等賞らしい。不思議なのは、「第二期種痘」をまたされていまして、大正七年三月九日。 第五学年は「操行善良賞」で 「筆箱壱個」。
大正九年三月二十四日 「卒業証書」です。「褒賞」のほうは「操行学力共に優秀なり」で、「手箱壱個」です。良く稼ぎましたね。
小学校を卒業した唯矣は、天王寺中学校に進みます。中学時代の記録は卒業証書だけです。唯矣自身で書いた経歴書の断片が残っていましたので、それを書きます。
『大正十年四月 大阪府立天王寺中学校に入学。  大正十五年三月 同校卒業。
昭和二年四月 大阪外国語専門学校支那語部に入学
昭和五年四月 株式会社高島屋に入店  現在に至る
現職 催部主任 高島屋青年団支那語講習会 講師』
 外国語専門学校の「支那語部」に入学したのは、おそらく当時の世相の反映でしょう。大陸への進出に大きな夢を描いての事だろうと思います。唯矣は、この外国語専門学校の学生の時に、仲間達と中国訪問の旅をしています。よほど大きな感銘を受けたのでしょう。死ぬ間際に、その旅行の体験を書き残しています。B5版のノート6冊を使っています。 万年筆で書いていますが、木瓜爺には読めない崩し字もあって、完読出来て居ません。書かれた時期的には、遺書に近いものなので、木瓜爺も死ぬ前に読んで、書き残してやりたいと思っていますが、間に合うかどうか・・・
 卒業後の「高島屋」への入社は、学柳明圓沙門のコネがあったからですが、高島屋自体も、中国への進出に取りかかっていましたから、必要な人材だったのでしょう。
大阪外国語学校が発行した「推薦状」が残っています。宛先が、高島屋図案部の方になっています。かって学柳の部下だった方でしょう。『今春卒業予定の支那語部生徒 村岡唯矣の申し出により別紙推挙書及び学業成績表を送付・・・・』
学業成績は「良」ですから、ナミですね。人物考定というところを見ると、「品行 方正、性質 敏捷、 特徴 野球部選手・文章に長ず。」
どうやら、学生生活の後半は、野球に夢中になっていたらしい。勿論硬式です。キャッチャーをやっていました。ユニホームなども残っていまして、木瓜爺が中学生の頃、お下がりを着ていました。体格が違うので、だぶだぶでしたが、袖をかすらせるデッドボールには有利! 残念、木瓜爺のやった頃には、軟式にはデッドボールがありませんでした。
文章に長ずというのは、家の環境でしょう。学柳、小丘が居たわけですから、経文をはじめとする「漢字」にも馴染んでいます。支那語を選ぶ位ですから、中国文学にも詳しかったでしょう。ずっと後の話ですが、蔵書に「金瓶梅」などがあって、子供の木瓜爺が覗いたら、まだ早い!と叱られました。
父と母が知り合ったのは、高島屋です。母(一法開心大姉)が、女学校を出て、高島屋の売り子として入社し、父がつり上げたようです。母は18才で結婚し、19才で木瓜爺を生んでいます。その直後、唯矣は、大陸進出のブームに乗って、「チンタオ(青島)」「ペーピン(北京)」などの支店長を務めます。もう結婚していましたが、単身赴任で、2~3年向こうに居たようです。「乾燥牛肉」などという物を送ってくれて、それを食べるのが楽しみだった木瓜爺です。太平洋戦争が始まる直前、帰国したのですが、戦争が順調だった運命を変えてしまいます。そのお話は、次回に・・・・

2017年6月22日木曜日

2017/6/22: My Family history 〔5〕 芳桂院小丘大姉

学柳明圓沙門の長女 「芳桂院 小丘大姉」の資料を失ったと書きましたが、それを書き写したと思われる ノートを見つけました。私の母が書いたものと思われますが、筆跡がかなり乱れているので、或いは 死ぬ間際に思い出してメモしてくれたのかも知れません。それを、ここに転記しておくことにしました。
『 村岡 登貴 (明圓 長女)
 書道は 山本竜山先生に師事。
 絵画は 河辺青蘭先生に師事 画号を「香波」という。後、大阪美術学校で、矢野橋村先生に師事 画号を「小丘」と改める。
 昭和五年 帝展(現在の日展)に初入選 以後 帝展に二回
 日本南画院大阪美術展に入選数回 大阪女流画家連盟同人
 戦争の最中から 東京都北多摩郡国分寺町に移り住み、戦後 「芳桂塾」を開き、習字絵画を教える。 
 昭和四十一年十一月八日 没 享年六十四才 』


朝日新聞社 発行の「南画展」という書物に 「第六回南画展 展示品二六番「田家風味」村岡小丘」という作品が掲載されているそうです。

 木瓜爺の幼い頃の記憶では、大阪の家の二階に、大きな画室があり、屏風絵などを描くときは、板を渡して其の上に乗って書いていたようなイメージが残っています。小学校に入る頃は、繪と書の家庭教師でした。

 戦争の最中、長男唯矣一家(つまり、木瓜爺一家)は、東京に移ります。暫くして、やや広い家に移れたので、同居出来ると、母ゲンと姉小丘を東京に呼び、一緒に暮らすようになりました。ただ、当時は荷物の引越は困難で、身の回りの品だけを持って、東京に来たようです。

 東京に移ったことで、小丘は画壇から離れてしまう結果になりました。大阪美聚学校以来のお友達で、子供の私もお目にかかっているのは、「融紅」さん。戦後も活躍された先生です。「融紅鸞」さんは、同じ矢野橋村の弟子、つまり同門です。そして、戦後はラジオ大阪の「悩みの相談室」で人気者となりました。「えらいこと、はじめはったなあ・・」などと、電話していたように思います。この方は昭和57年5月26日死去。76歳。大阪出身。大阪美術学校卒。

そういう点では、小丘は気の毒でした。国分寺のあばら屋で、飯炊きの竈と格闘することになってしまったからです。

 戦後の生活で、小丘ではない登貴伯母は、母代わりという位置でした。私の母は、父が職に恵まれないために、美容師として働きに出ていました。そのため、伯母が「おさんどん」の役を果たしてくれたのです。食糧難時代・・・トウモロコシの粉や脱脂大豆の粉をどうやって食べるか、悩んだ末に、センベイを作って朝食にしました。その手焼きセンベイを早朝から焼いてくれていた伯母の姿が目に浮かびます。
 私が高校生になる頃から、前述の「芳桂塾」を開いて、生徒さんと楽しみながら、時には写生旅行なども出来るようになっていました。
 たまたま、庭で転んで、足を捻挫し、其の治療に、下部の温泉、「源泉館」を紹介した所、気に入って湯治に出かけていました。「源泉館」には、滞在中に書いた小丘の繪が残っているにではないでしょうか。

 なぜ、小丘にこだわっているかと云いますと、我が家で最初に癌で死亡したのが、小丘なのです。ただし、若死にした「学柳明圓沙門」も癌だったのかも知れませんが、当時はまだ医学的にもよく分からない状態ですから、除外しています。「小丘」は「原発不明の肺癌」と言われました。レントゲンで、左肺が全く見えないといいますか、肋膜に水が溜まった状態の写真になっていました。そうなる前の源が分からないというのです。
 
 次回は「唯法徹心居士」です。私の父ですが、これがまた「肺癌」でした。

 
(追記 2017/6/28)
小丘の画友について、大物(?)を書き漏らしておりました。忘れていたわけではなく、私が生まれた時に、お祝いに頂いたという繪を探して、お名前を確認したかったのです。今朝やっとしまい場所を思い出しまして、確認出来ました。
『生田花朝』さんです。この方は、年齢的には、だいぶ上の世代でして、小丘にとっては、「大先輩」という感じだったのでしょう。小丘が昭和5年に帝展に初入選したときには、生田さんは10回目の入選をはたしておられます。頂いた色紙は、45才の時のものです。44才の時、帝展無審査ということになっておられます。晩年は「花朝女」という署名落款をされたそうですが、我が家にある色紙は「生田花朝」でした。お亡くなりになったのは、昭和53年ということですから、あの世では、小丘の方が先輩になりました。





 




2017年6月13日火曜日

捨ててこそ(7)  寿命に合わせて

木瓜爺、つくづく「幸せだなあー」と、運命をかみしめることにしました。

 「捨ててこそ」などと気取っても、自分がいつまで生きるのか分からない内は、捨てる踏ん切りがつきません。寿命が自分で分かったら、整理も付けやすいのになあ・・・と、思っていたら、どうもそれが「ほぼ、見当がつく」状態になったらしいのです。

 二ヶ月ほど前から、昔病んだことのある「十二指腸潰瘍」の時と似た軽い痛みを、「十二指腸」のあたりに感じ始め、糖尿病の薬を貰っている医者に「内視鏡」で覗いて貰いました。
 検査結果は「異常なし」です。でも、抑えると、違和感は間違いなくあります。それで、エコーで見て貰うことにしました。すると、やはり、十二指腸の裏がわにおかしな影がある。ということになって、大きな病院に検査依頼。今度はCTスキャンという奴で、身体の輪切りをして貰いました。その結果、「膵臓ガンの疑いあり」 ということです。来週、さらに精密な検査を受けることになりました。どういうことになるか分かりませんが、この「膵臓ガン」というのは、発見が遅れる病だそうです。というのは、自覚症状になる「猛烈な吐き気」「食欲不振」「背中の痛み」・・・といった症状が出るのは、末期に近い時期らしいのです。木瓜爺の場合は、まだ「書かれているような症状」は、全くありません。なにかの間違いじゃないのかなあ? と、思っている位です。

 しかし、この膵臓ガンというのは、十二指腸に包まれたような位置ですから、細胞検査も容易ではないらしい。精密検査で開腹なんて言われたら、どうしようかなあ???と、迷っています。

 それはそれとして、このガンは、5年生存率が6%しかありません。つまり、自分の寿命が見えて来たのです。それが、冒頭の「幸せだなあー」になるわけです。とはいえ、多分、これから本当の「うろじウロウロ」が始まると思います。
 
 そういえば、インターネットで「膵臓ガン」ってどういう病気だ?と調べましたら、翌日から、治療に関する広告が次々と画面に現れます。便利な世の中になったなあ・・・・でも、30年掛けていた「ガン保険」を止めて二年目に、そういう疑いが発生するというのは・・・やはり「ガン保険」は「ガン除けのお守り」だったのですねえ・・・・

 
 さて、まず、何を捨てるかな? 里山用以外の登山案内書は不要でしょうね。今週はこれを捨てよう・・・・

2017年6月10日土曜日

2017/6/10:My Family history 〔4〕 学柳明圓沙門 その3

もう一つの資料、「大阪現代人名辞典」に移ります。これは、大正2年の発行資料です。実はこの系統で、もう一つ新しいものが紛失してしまったようです。それには、学柳の長女、小丘が女流画家として紹介されていたと記憶しているのですが、残念です。
この人名辞典の記述は、前回の蔵前校友録の記録と大差ありませんが、愛知県での活動に触れています。
『村岡学柳君 大阪府の人、田中政一の二男にして、明治七年四月三十日 京都烏丸高辻に生る。長じて後村岡天山の養子となり入てその姓を冒せり。幼少より繪畫々好みしが長ずるに及び、遂に畫を以て身を立てんと志し、今尾景年に師事し、専ら斯道を修めしが、後又た志を転じて図案家たらんとし東京工業学校図案撰科に入る。研修数年技大に進む。卒業の後、群馬県に赴き、物産地図案奨励のため、周く県下を遊歴せり。後愛知県勧業課の招聘に応じ、農商務省井手技師に随行し、大日本図案協会商議院審査員、京都図案会評議員となり、斯界に其の名を知らるるに至れり。従来各地展覧会博覧会等に作を出して江湖の称賛を博し、賞牌褒状を受けたること数回に及べり。曾って明治三十五年東京高島屋呉服店に在るの時、宮内省の下命に依り先帝陛下並びに皇太后陛下の御大礼服考案の光栄に浴せし事あり。その後 同店の大阪本店詰めとなり、その図案部主任として経営に任ずること十年余に及び氏しも大正二年一月辞して同店の顧問となり、傍ら図案の畫に応じつつあり。(大阪府豊能郡櫻井谷村大字南刀根山)』

「江湖の称賛」の意味を解説しないと、いけないかも知れませんね。「江湖」というのは、中国の「江西省」と「湖南省」、ちょっと狭く考えても「長江と洞庭湖」を意味して居ます。それが転じて、「世の中」「世間」というような「広範囲」を意味するようになりました。「広く世間から称讃を得た」という風に解釈して下さい。

「学柳明圓沙門」は、生涯何回引越をしたのか、木瓜爺直接調べたことがないのですが、父や母に聞いたところでは、戸籍の移動をたどるのが極めて困難だったそうです。戦災も絡んで(謄本の置かれていた役所が空襲などで焼けた)、相当苦労し、大阪で不動産業を営んでいた方にもたすけて頂いたようです。
 私の記憶では、長女登貴こと「芳桂院 小丘大姉」は、東京の生まれだったように思います。つまり、高島屋東京店に勤めていた頃に結婚し、長女が誕生したのでしょう。この伯母の戒名に院号が付いていますが、是は、弟の「徹心居士」が、菩提寺の和尚さんに相談して付けた戒名です。伯母は、晩年、国分寺で「芳桂塾」という書道の塾を開いていましたので、それを記念したものです。また「小丘」というのは、画号です。木瓜爺が付けると「芳桂院 登貴小丘大姉」となっていたかもしれません。ちょっと簡略化したようです。

 長男 唯矣こと「唯法徹心居士」は、大阪で生まれています。先ほどの資料によると、
大正二年には「櫻井」にいたようですね。

 学柳はこの移動期間は、全て「借家」だったようです。大正二年に高島屋を辞めたあと、大正六年にまた「十合」に務めたことは、前回に書いております。櫻井では通勤も大変でしょうから、また大阪市内に舞い戻ったと考えられます。
 正確なことは分かりませんが、おそらく昭和に入ってからでしょう。東住吉区田辺本町に、自宅を建てます。終の住まいとして建てたものでしょうが、この家は、地面が借り物でした。これは、当時としてはよくあった形です。ただ、それなりに考えたのだろうなと思うのは、玄関は別になっていますが、構造体としては、2軒の家を一つにしてありました。二世代住宅のはしりとして作ったのか、或いは遺族が家賃収入を暮らしのたすけに出来るように考えたのか・・・実際には、後者として役だっていました。
 祖母の話ですと、オシャレだったそうですが、それがちょっと渋いのですね。着物を作る時、同じものを少なくとも二枚同時に仕立てるのだそうです。一枚を洗いに出しても、もう一枚のほうを着て出かける・・・つまり、他人には「いつでも同じ格好をしている」と思わせるのだそうです。

 享年五十六才は、今だと若すぎますね。

 学柳が死んで3年後、木瓜爺はこの家で生まれました。主屋の方の庭が広くて、大きな石榴の木が庭の中央にあり、井戸の回りには、イチジクの木が二本ありました。と、まあ、実が食べられた木のことはよく覚えています。

 「学柳明圓沙門」の巻はこれで一応終了とします。つれあいは「元柳明美大姉」。学柳の戒名を頂いた時に、同時に頂いた戒名です。本名が「ゲン」で、通称が「美代子」であった祖母です。二つの戒名を一つの位牌に彫ると、「柳明」の一致に美しさを感じます。つけてくださった和尚さん、頭良いなあ・・・










2017年5月16日火曜日

2017/05/16: My Family history 〔3〕 学柳明圓沙門 その2

前回は 家伝(?)による「政之輔」の子供時代のことを書きました。疑問の一つが、中学も中退しなければならなかった彼が、どうして、蔵前に入れたのかという点です。托鉢をさせられていた「明圓」小僧は、頼み込んで「今尾景年」に弟子入りし、「学柳」という画号で、着物の下絵などを描き、生計を立てていました。 木瓜爺が自分自身の性格の一部が学柳のDNAによるものだと意識すると、おそらく学柳は下絵を描きながら、今の言葉でいえば、「標準化による生産性向上」というようなことを考え始めていたのだろうと思います。この辺のところを、資料として残っている「蔵前校友誌(大正15年9月30日発行)」の記述から読み取りたいと思います。写真の文字が小さくて読めないと思いますので、書き写します。

『村岡明圓君 三五選圖 京都十合呉服店意匠部 住所 大阪市天王寺区小宮町四〇

夫人 美代子

長女 登貴子 女流画家

長男 唯矣 天王寺中学在

趣味 写生旅行 謡曲

 君は、明治七年四月 舊金沢藩士田中政一氏次男として京都に生まる。亡父は明治維新の際、急進派に属し、京都に出でて戦ひ、事平らげる後、京都烏丸にて呉服業を営む。

君は幼にして村岡家を襲ぎ、小学校卒業後愛知中学に入りしも家業の都合上半途退学し、芸術を以て身を立てんと欲し、京都今尾景年氏に師事して絵を習い、傍ら西陣織物の下絵を書く。当時の図案は多く画家の手になり、骨描淡彩にして配色の印にすぎず。実物製品には甚だ遠く無責任のもののみなれば、君が之を改良を計りつつありし折柄三〇年四月群馬県桐生の同業者有志に聘せられて織物作製に従事す。これ同地における斯業の矯矢なり。後同地の先覚者森山芳平氏、及び後藤定吉氏に依り故手島先生に紹介せられ、東京高等工業学校工業図案科選科に入る。これ図案選科の初なり。在学中成績優秀にして銀牌の賞を受く。

三十五年四月東京高島屋へ時の皇后陛下の大礼服のご下命ありし際、同店より再三井手教授に逼り来りし為同教授に選抜せられて同店に入る。爾来同店の為に専属工業家の団体高榮会を督して裾模様別染と筒糊を以て色写しを成功せしめる事を唱導し遂に完成せしむ。在勤十一年にして退店し後自営すること五ヶ年、大正六年二月より大阪十合呉服店に入店して意匠部を統括す。同店専属の京都あやめ会を督励して、無線有線並用、恒に図案と製品との味を調和せしむべく努力し毎月一回の研究会を開き製品に対して講評をなす。会員は之を楽しみとして聴くを待つの風あり。同地図案界の一権威たり。尚、君は日清日露の戦役に参加して功あり。(大正十四年)

実務先行で、京都から群馬桐生に移り、図案業?今で云うと図案デザイナーを始め、そこで東京高等工業学校の先生を紹介され、今で云うと研究生的な形で、入学させていただいたのですね。そして、高島屋が昭憲皇太后の大礼服を受注したときに、教授の推薦で高島屋に送り込まれ、見事に仕上げたということです。国分寺の家に澄んでいた時、この時の大礼服を着られた皇后の写真と、頂いた勲章が仏壇の下の引き出しに入れてあって、祖母に話を聞いたことがあります。不思議なのは、この写真と勲章が、私に伝わっていません。 どこに行ってしまったのやら・・・

学柳の業績の一つに、着物につける「家紋」の整理統合があるそうです。家紋を集めた小冊子を作る手助けをし、これが「家紋のバイブル」として印刷発行されたようです。発行者は京都の有名な呉服店の市田さんですね。明治36年の発行になっていますから、高島屋時代でしょうか?





こうしてみると、「爺ちゃん」は偉かったのだなあ・・・と、つくづく感じます。図案家といっても、芸術的な要素以外に、「技術屋」としての合理性・緻密な感覚も優れていたのでしょう。インダストリアル・デザイナーのはしりだったのでしょう。

もう一つの資料、「大阪現代人名辞典」は、次回に。

2017年5月1日月曜日

2017/05/01: My Family history 〔2〕 学柳明圓沙門 その1

三月のはじめに、始祖? 天山禅師大和尚 の事を書いてから、あっという間に2ヶ月過ぎました。今日から書く「学柳明圓沙門」は、我が家の初代になります。戒名に「沙門」とあるのは、嘗て僧籍にあったことを意味して居ます。彼は、天山禅師の養子になり出家しますが、故あって、方向転換。俗世間で生きます。その時、天山禅師が使っていた「村岡」姓を名乗ったと思われます。

我が家系で、世間に知られた功績を残したのは、「此の人」です。以降は尻すぼみ(?)のようです。「此の人」などと他人行儀なことを書いていますが、木瓜爺の祖父に当たります。ただ、木瓜爺がこの世に生まれた時には、すでに他界しておりましたので、写真でしか逢ったことがありません。戒名の「学柳」は画号です。本名は「明圓」。これは、僧籍にあった時の名前だろうと思いますが、戸籍はこれで作られています。それ以前は「幼名」として「政之助」。 ただ、木瓜爺は、「学柳おじいちゃん」と聞かされていましたので、その呼び方が最も馴染んでいます。

「明圓」については、彼が卒業した「蔵前高専」、つまり現在の東京工業大学の前身である学校の「蔵前校友誌」と、「大阪現代人名辞書」に公表された記録があります。また、彼が手がけた作品は、東京藝術大学の美術館に保存されています。

「明圓」の職業は、「図案家」、デザイナーなのです。

これらの文書は、「明圓」が名を成して以降のことであって、幼少の頃については、我が家の言い伝え、メモ書きなどでしか分かりません。通常最も頼りになるはずの、戸籍謄本が謎をはらんでいるという状態なのです。

今回は、まず我が家にある「伝記(?)」をたどり、次回には、前述の二文書の記述をご紹介したいと思います。この「伝記」は、木瓜爺の母が、亡くなる少し前に、いろいろ思い出して書き残してくれたノートに記されていました。誤りと思われる部分も有りますが、とりあえず原文のまま・・・前述の二文書から写したのではないかと思われる記述が多くの部分を占めています。

『村岡学柳の経歴  明治7年4月30日 金沢藩士田中政一の次男として京都烏山高辻に生まる。 父母を早く亡くし、五才の時 村岡天山の養子となり 仏門に入り明圓となる。 小学校卒業後 愛知中学に入学 家事の都合上途中退学し 僧としての修行する。 京都市内を托鉢しながら、今尾景年氏に師事して絵を学び 画号を学柳となる 西陣織物の下絵を描く。 書画を以て身を立てんと志し 東京工業学校 図案専科に入る 研鑽数年 技大いに進む 在学中成績優秀にして 銀牌の賞を受ける。

卒業の後 群馬県に赴き 物産地 図案奨励の為 周く県下を遊歴す。後、愛知県勧業課の招聘に応じ、農商務省 井手技師に随行し 大日本図案協会 商議員審査員となり斯界に其の名を知られる。 各地展覧会博覧会等に作を出し、江湖の称讃を博し 賞牌褒状を受ける事数回。

明治三十五年 東京高島屋呉服店に在る時 宮内省の下命に依り 明治天皇 並びに皇太后陛下の御大礼服考案の光栄に浴せし事あり 

日清日露の戦役に参加

其の後、高島屋本店詰となり 図案部主任として経営に任ずる事十年余 明治四十五年 大正二年一月退店し同店の顧問となり傍ら自営する  大正六年二月より 大阪十合呉服店に入店して意匠部を統括す 昭和六年九月五日 死亡』

 明圓の父は金沢藩士となっていますが、どうも維新の頃、金沢を脱藩して攘夷に騒動に加わった人々の一人だったのではないかと思われます。しかし、本当に「田中政一」であったのかどうか、証拠が見つけれないのです。「父母を早く亡くし」の部分の詳細が全く分からないのです。なお、政一の二男と母は書いていますが、政之助という名前から見て長男だったのではないかと思います。後で出てきますが、入籍した先の扱いが二男なので、書き違えたのではないでしょうか。

昭和六年(1931)に死んだ明圓は享年56才と伝えられています。満年令か数え年かハッキリしませんが、昭和初期のことですから数え年でしょう。そうすると、生まれたのは、明治9年(1876)くらいになりそうです。なんかおかしい? 木瓜爺の父「唯法徹心居士」が、相続の頃に戸籍謄本を取り寄せて、主要事項を書き写したメモが残されています。それには、こう書かれています。『村岡明圓(政之助) 明治四年四月三十日生  明治十六年一月二十日 京都府下京区東松屋町 田中政七 二男入籍 明治二十三年三月二十八日改名』

これが正しいとすれば、死んだのは60才ということになります。 父の写し違いかも知れません。そしてこのメモの重要問題が、明治十六年(1883)田中政七 二男に入籍 という記述。つまり、それまで、政之助には戸籍がなかったことになります。謎です。戸籍法が始まったのは、明治4年頃でしょう。実際に全ての戸籍が整えられたのは数年後だろうと思いますから、宙ぶらりの人がいても不思議ではありませんが、それにしても、明治16年入籍というのは不可解。これは、恐らく中学あたりに入学する為に、戸籍を作る必要を生じ、田中政一の弟、政七に入籍して貰ったのではないでしょうか?

何らかの理由で、父母を殆ど同時に失った幼児を、天山が拾い、育てていたような気がします。そして、小学校に入る時には養子の形をとり、親戚があることが分かって、あらためて、戸籍を作らせた・・・というような、経緯が隠れているように思われます。

「家事の都合上途中退学」というのは、天山が住職をする寺を変わったというような事情がありそうです。明圓は家事として托鉢にまわらされ、それをサボって(?)、画の勉強をしたというようなことを、祖母に聞いた事があります。托鉢にまわった家が画家だったので、ちょくちょく見に行き、弟子にして貰ったのでしょうか?


「学柳」の署名のある画は、手元に何枚か残されています。今、床の間には、端午の節句用の掛軸「兜」が掛かっています。右の絵は、家紋をいれた袱紗に学柳が書いたものです。


師の「今尾景年」は、著名な画家です。『日本画家。京都生。名は永勧、字は子裕、景年は号、別号に聊自楽居。初め浮世絵師梅川東居に師事、のち鈴木百年に四条円山派を学ぶ。花鳥画を得意とし国内外の博覧会で多数受賞するなど高い評価を得た。帝室技芸員・文展審査員・帝国美術院会員。大正13年(1924)歿、80才。 』 と、コトバンクにも出て来ました。 
続きは何時かけるかな?

2017年4月22日土曜日

2017/04/22: 捨ててこそ(6) FM3A さようなら

2月11日に、APS-Cのデジ一眼が壊れた話を書きました。修理不能になったカメラを捨てる話でしたが、いまだに手元にあります。使ってはいません(壊れたのだから当たり前)。使わないのに捨てられない・・・そんなバカなと笑われるでしょうね。もしかすると奇跡が起きるかもしれない・・・と、思っているのでしょうか?
それはそれとして、過日、倅が、以前使っていたコンタックスのG2というフイルム・カメラをプレゼントしてくれました。処分して小遣いの足しにしなさい、という有難い話なのです。早速木瓜爺がやったのは、電池を買ってきて、動作を確認することでした。余っていたフィルムもくれたので、それを使って試し撮り。交換レンズも全てテスト。カメラ本体は問題なさそうでした。レンズはカビは大丈夫なようですが、ゴミ入り(内部の塗装が剥がれたりしていることがありますが、素人にはちゃんとは見えません)が有るかも知れません。2基あったストロボの1基が動作不良。これはスクラップへ。
一応、外部は掃除して、売却処分することにしました。中古カメラ店の標準査定を調べますと、当初思ったより高価に引き取って貰えそうなのです。それ以前に、自分のFM3Aというフィルム・カメラの概算見積もりをして貰った額よりも高くなります。G2の交換レンズの一本が、高価なのです。買取額は、買い換えとしてなら、割り増しが付きます。両方同時に処分すると、中級デジ1眼の新品が買えます。ただし、そのレベルのカメラには、もう興味が無くなっています。買うならもう一クラス、上級の機械にしたい。・・・・・捨ててこそ が、どこかえ消えてしまいました。どうしようもない凡人です。
 とにかく、明日にでも、この2台と、別のカメラの交換レンズの残り物を担いで、写真屋に行くつもりです。査定次第で、僅かの現金を貰ってくるか、逆に少々持ち出しでも、新しい(新品という意味ではありません)中古機を担いで戻る事になるか・・・
このFM3A というカメラは、マニュアル・フォーカスで写すフィルム・カメラの最後のカメラでした。デジタル化の波が来なければ、木瓜爺の愛機として、今でも活躍している筈だった相棒です。それで、ずっと手元に残していたのです。今日は朝から、別れを惜しんで、あまりごしごしも出来ませんが、軽く磨きました。新しい「よいご主人」に巡り会えよ、と祈りながら。
捨てきれない木瓜爺ですが、台数だけは確実に減りつつあります。残りの35mmフィルムは、手元に残った、TROOF(カメラの名前)が引き受けると云っておりますので、電池を買ってきます。
来月は、My Family Story の続きを書きたいと考えています。


2017年4月7日金曜日

2017/04/07 ブログの悩み 

このブロガーでは、はみ出してしまうらしい「長文・多写真」の記事を書くために、新しい無料ブログに登録して使い始めたのですが、これが何とも難しい・・・・
昨日は10枚の写真を入れた物が公開出来たのですが、今日の分は、写真を受け付けてくれないのです。アップはできているのですが、記事に挿入しようとすると、昨日と違って反応しないのです。何が変わったのかさっぱり分かりません。
「うろじウロウロ」どころか「ブログうろうろ」になってしまいました。

 木瓜爺の健康法になっているのは、『「カメラを持って散歩」し、その次第を「ブログ」に書く、書きながら疑問に思ったことを、文献やインターネットで調べて、ブログに取り込む』 という、身体と頭の連動です。そのブログを読んで下さる方があれば幸い・・・

 話は変わりますが、木瓜爺の住む「羽村市」。玉川上水の取り入れ口がある場所です。この上水脇にも桜並木があるのですが、昨年、年老いて弱った木をかなり切りました。補強が必要な古木には支柱も付きました。しかし、いじられた所為もあったのか、今年はなかなか開花しませんでした。やきもきしていたのですが、やっと昨日、五分咲きくらいになったようです。

4/9 には、八雲神社の春祭りがあって、御輿は川の中を渡ります。ただ、川にかかる歩道橋の地震対策工事が行われた関係で、水深の状況が例年と全く違っています。多分、全体的に浅くなっているでしょうから、御輿に水浴びがさせられないかもしれません。どうなる事やら・・・



2017年4月5日水曜日

『実験版』  2017/04/05: 〔江戸の古社〕;木瓜爺撮歩77-1 王子神社 (木瓜爺ブログNo.3006)

撮歩ブログは、新しいFC2 の「続・木瓜爺ブログ」を使う筈だったのですが、ブログライターが、うまく接続できません。FC2を知らないらしい・・・使用するブログの種類とかリモート投稿のWEBアドレスとか、木瓜爺の知らないことを聞いてきます。

で、それが解決するまでの数日? この「木瓜爺 うろじウロウロ」の頁を借用しようかと思いました。ただし、こちらも写真枚数に制限があるらしいので、細切れ投稿になりそうです。それと、シンプルな写真配列を使います。やってみないことには分からないので、実験あるのみ・・・

久しぶりに「お江戸の古社」を訪ねます。「王子」にある「王子神社」です。ついでに「王子稲荷」もまわりたかったのですが、なんと、地図を忘れて(正確にいうと、どこにしまったのか分からなくなってしまって)今回は寄れませんでした。

久しぶりに「お江戸の古社」を訪ねます。「王子」にある「王子神社」です。ついでに「王子稲荷」もまわりたかったのですが、なんと、地図を忘れて(正確にいうと、どこにしまったのか分からなくなってしまって)今回は寄れませんでした。

 「王子駅」の利用の際、難しいのは、どの改札から出るかの選択です。「飛鳥山公園」に行くなら中央口、「音無川親水公園」や「王子神社」に行くなら北口。この二つの改札の中間に、横断歩道がない広い道路が通っているために、出る改札を間違えると、思いもよらない遠回りをさせられて、ひどい目にあうのです。此の日は、北口から出ることにしました。

プラットホームから飛鳥山を見ています。
此の日、木瓜爺は神田駅から京浜東北に乗り換えたのですが、ご存じのように、JR山手線は丸くまわっています。東北線も上野を過ぎて暫くしてから次第に山手線から離れて北北西に向かいます。丸く走る電車に乗っていると、方向感覚がおかしくなりまが、それが残っていて、ホームに降りた瞬間は、飛鳥山が北にあるような錯覚を起こしていました。実際は、王子駅の南にあるのです。






この階段を降りて、左に出ます。ですから、飛鳥山に行くなら「中央口」が良いということが分かった駅前の地図をお見せします。

「現在地」と書かれた場所におります。この地図、今回の「飛鳥山散歩」の範囲を網羅しています。現在地から真南に「王子神社」「音無親水公園」がありますね。その右の広い道路が横断歩道も歩道橋もないのです。横断するには、駅の北側まで戻るか、南の音無橋交差点の方まで行かないといけません。ひどい道路です。




改札を出てくると、こんな道があります。これは、「音無親水公園」に行く道です。この道を入って、「王子神社」に行くのが近かったようですが、木瓜爺遠回り道を行きます。線路沿いに進みました。

やはり、5枚が制限になっているようです。

これでは駄目なので、一応 投稿はしておきますが、本物は、「木瓜爺ブログ」に 公開します。


















2017年4月4日火曜日

2017/04/04: 飛鳥山の花見 (木瓜爺ブログ No.3005)

老人は、小さい文字は苦手なので、このブロガーの標準値より大きな字を使っています。しかし公開された状態では、大きく見えない・・・

4月3日 朝曇っていたので、一旦は出発を取りやめたのですが、9時近くに日が差し始め、やっぱり歩いて来ようと、飛び出しました。目標は15000歩程でしたが、地図を1枚忘れたために、11500歩で終わってしまいました。

京浜東北線の「王子」駅まで行って、「王子神社」「飛鳥山」を歩いてきました。地図を忘れたのは「王子稲荷」です。「王子神社」とは別の場所です。また日を改めて歩きます。
詳しいお話は、「木瓜爺撮歩」としてまとめます。

  写真は、「飛鳥山公園」。木瓜爺も少し高くなった所に座り込んで、パンなど囓りながらしぶーいお茶を飲んで(冴えない話!)お花見してきました。 写真一枚なら投稿出来る筈なのだけど・・・駄目ですねえ。写真のせいではない。ブログライターの設定が悪いのでしょう。要研究。

結局今日も、ブロガーの中のエディターで書いています。これでは、とても、「撮歩ブログ」はかけません。今日程度のダイジェスト版だけですね。やっぱり、別に考えます。
懐かしかったのは、飛鳥山にある、王子製紙(?)が昔作った「紙の博物館」。58年ぶりくらいでしょうか。昔の事は良く覚えていないのですが、「紙」の作り方の勉強に行った場所です。今は、展示も面白くなっています。多分、すっかり変わっているのでしょう。場所も違うようです。調べて見ると、『紙の博物館は、1950年(昭和25年)に、和紙・洋紙を問わず、古今東西の紙に関する資料を幅広く収集・保存・展示する世界有数の紙の総合博物館として、東京・王子に誕生しました。王子は、明治初期に近代的な製紙工場のさきがけとなった抄紙会社(後の王子製紙王子工場)が設立された地で、"洋紙発祥の地"として知られています。


1949年(昭和24年)、占領政策の過度経済力集中排除法によって、王子製紙は苫小牧製紙・十條製紙・本州製紙の3社に分割されました。これを機に、翌1950年(昭和25年)王子製紙紙業史料室の資料を一般公開し、広く社会教育に貢献するために、王子工場で唯一焼け残った発電所の建物を利用して、紙の博物館の前身である「製紙記念館」が設立されました。その後、首都高速中央環状王子線建設によって工場跡地を離れることとなり、1998年(平成10年)飛鳥山公園の中に「飛鳥山3つの博物館」のひとつとして新装オープンしました。』  これで見ると、木瓜爺がうろついたには、発電所跡にあった時代なのですね。覚えていない話でした。 王子駅の南側には、お花見する場所が二つありました。一つは「飛鳥山公園」ですが、もう一つは「山」ではなくて、「音無川」の「親水公園」。団体様は「飛鳥山」ですが、爺ちゃんが一人のんびり花を眺めるのは「親水公園」のほうが良いかも知れません。

 
 写真の位置は、この3箇所にはおけるようです。中央に置いたときは、左右が無駄になりますから、中央は、大きな画像にすると覚えておきます。

2017年4月3日月曜日

2017/04/03 羽村の桜 (木瓜爺ブログ No.3004)

 

今日は「うろじウロウロ」に間借りをしようと思ったのですが、全然投稿を受け付けてくれません。「木瓜爺ブログ」通常写真が10~20枚くらい入ります。そういうことが うまく出来るかどうか、一度試してみるつもりでしたが、実行がのびのびになっていて、本日、実験兼本番ということになりました。ブログライターからの投稿が駄目では仕方が無いので、一旦、ログインして、コピペでライターの内容を転記していってみます。

 今年は、やや暖冬気味と思っていたのですが、桜に関しては、逆に遅くなっているようです。昨日4月2日にやっと、「咲き出したなあ」です。
 まず、3月30日の散歩で、福島県人会から寄贈された「三春滝桜の子孫」がだいぶ花を付けていました・・・というところ~始めます。この、ピンクに見える木なのです。遙か彼方に見えて居るのは「ソメイヨシノ」の桜並木ですが、まだあまり色づいても居ませんでした。

この孫滝桜が、程良く咲いた頃、羽村で一番大きいかもしれない、「枝垂れ桜」が咲き始めます。ここから、10分たらずの場所なので、見に行きました。咲いているようには見えないかも知れませんが、左の方の枝は、かなり開花していました。


 






















それが右の写真です。 此の日は、玉川上水沿いの「ソメイヨシノ」は、まだ堅い蕾状態でした。
 そして、四月二日朝。丸山児童公園の清掃に出かけて、公園の桜と、隣の「羽村歴史博物館」の桜(ソメイヨシノ)を見たときには、「開花」といえるな・・・位の感じでした。掃除が終わって、一旦我が家にもどり、また博物館に行き老人クラブの総会資料を印刷して、帰りがけに上の方を見ると・・・おやおや、随分花が増えたな・・・。 


 昼食を済ませてから、カメラを持って、博物館に戻り、多摩川右岸の桜を点検。まだ咲いていない樹もありましたが、そろそろお花見も出来るかな? でした。

それでは、「桜祭り会場」のほうを見て来よう。と堰下橋を渡って行ったのですが、玉川上水沿いは、一本だけ「5輪以上開花」があっただけでした。花はなくとも、お花見は出来るらしくて、人出はあります。 この分では、次の日曜日、「八雲神社」の春祭りは「桜満開」ということになりそうです。
・・・・・・ここまで、書くのに何時間かかったのかな?  写真は、まとめて先にアップロードしておいて、それを挿入しながら書かねばならないようです。これだと、gooなどと同じですね。
写真の位置を変える作業は、ひどくやりにくいです。プレビューを見ると、レイアウトもまるでデタラメになる用です。「撮歩ブログ」は無理だなあ・・・・







2017年3月28日火曜日

ぼけの始まり(2) 記憶が点線状態に?

普通の人でもあることなのでしょうが、自分の脳が心配になってくると、ひどく気になることを書いておきます。一つは、一昨日感じたことです。 彼岸に墓に備えた花が枯れているかも知れないと気になり、父の月命日でもあり、様子を見に行きました。雨が降っていましたので、久しぶりに車で出動です。雨ですから、傘を持って行かなければ・・・持って出たつもり・・・
 車が少なくなる「昼休み時間」に往復したいという気持ちで、出かけたのは11時をちょっと過ぎた位でした。道路は、予想していない場所でちょっと混みましたが、まあまあ順調に走れました。この走行の途中、「七曲がり峠」という山越えがあるのですが、最近は二曲がりくらいで峠を越えるように道が変わっています。この峠の附近に、「切欠」というカタクリの花が咲く場所があります。もう咲いているだろうな・・・などと思いながら、手前にある「東秋川橋」を渡ったことは覚えています。ところが、七曲り峠を越えた記憶が無いのです。戸吹にあるゴミ焼却の熱を利用している「日帰り温泉?」の横を通り、川口川を渡る辺りまで走って、車がやや渋滞気味になったときになって、「はて?七曲峠越えたっけ?」 という疑問が浮かびました。どうも、「認識ー記憶」が不連続になっているようです。

これに気付いて、先日起きた事件(?)を思い出しました。老人クラブでのことです。有る会合の席上で、Aさんに、次の行事の為の買物用のお金をに入れた袋を渡したのです。袋には、用途・金額などをメモ書きしてありました。Aさんは、一緒に買い物に行く予定のBさんにその袋を見せて、買い物に行く日を打ち合わせているようでした。
所が、それから数日して、道でAさんとBさんが乗った車に出合った時、助手席のBさんが窓をあけて、「立て替えて買い物してきたから、お金頂戴」と言うのです。「お金はAさんに渡してありますよ」。ところが横にいるAさんはキョトンとしています。まったく覚えていないのです。 路上での立ち話なので、あとで・・と、、分かれました。
 戻って暫くして、Aさんから、金は貰っていないという電話。こちらは、出金伝票を見ながら、何時渡したかを説明。「車の中に置き忘れているのかなあ? もう一度探してみます」ということになり、
 さらに何日かして、「ありました。当日着ていた洋服のポケットに入っていました。」と電話がありました。前後のことを含めて、記憶がすぽんと脱落してしまっていたようです。一生懸命思い出して、着ていたものにたどり着くのに時間を要したようです。
 ここまで来ると、単なる「物忘れ」ではなく、やはり「痴呆性の症状」が出始めているとしか思えません。

 こういう症状を抱えた老人達の自主的活動という「老人クラブ」。まともに運営できるのは奇跡でしょうねえ。  活動には、市から助成金が出ています。そして、公正な会計処理と決算報告を求まられます。 どこまで、木瓜爺の脳が対応してくれる事やら・・・・後継者を育てれば良いのですが、任意加入の団体ですから、後継ぎが入ってくれないと駄目なのです。何人か候補は居そうですが
、何故かコンピュータやワープロに無縁だった人ばかりのようです。市からの助成金申請書などはCDRで渡されますからねえ・・・
ここで、ちょっと一休みして、散歩してきました。・・・・・
話変わりまして、墓地についた木瓜爺、雨が一段と強くなりだしていたのですが、車から出ようとして傘を探したら・・・ありません。おかしいなあ? ・・・・はっと気が付きました。ガレージの扉を開くときに、持って出た傘を、車に入れないで、屋外の傘立てに入れて仮置きして・・・それを忘れて、車に乗ってしまった!
かくの如く、意志と行動のつながりもまた、点線状態になって居るのです。悲しいものですね。

2017年3月1日水曜日

2017/03/01 My Family history 〔1〕 天山禅師

こういうタイトルがふさわしいかどうかよく分かりません。 ただ、どこかに書き残して置きたいと、入力を始めました。
木瓜爺の姓は「村岡」といいます。この姓を使い始めた「始祖」(?)は、戒名が「天山禅師大和尚」と申します。禅宗の僧侶でした。なぜ、初代と書かないかというと、僧は家を捨てているからです。それで、「出家」という表現になるのでしょう。わが家系の初代は、「学柳明圓沙門」。彼は出家から還俗して、養父の「村岡」という姓を名乗ったように思われます。還俗したので、ここから「村岡家」が始まったのです。
  しかし、「天山禅師」のことを書かないと、私の気が済まないのです。其の理由は、最後に書きます。
 「学柳明圓沙門(以下 明圓 と書きます)」の養父であった 戒名「天山禅師大和尚」は、俗名不明ですが、弘化元年(1844)生まれ、愛媛県温泉郡橘村 竹田平作三男分家と、私の父が記録しています。したがって、本来なら、「竹田天山」であるはずなのです。分家に際して「村岡」姓を名乗ったのか、戸籍法が出来て、戸籍を作る時に「村岡」としたのか、その辺りは分かりません。父の書いた記録というのは、おそらく「明圓」が亡くなった時、持家の相続関係作業で取り寄せた戸籍謄本の抜き書きだろうと思います。昭和6年頃の話なので、今のように謄本のコピーを残しておくということも出来ないから、メモしたのでしょう。
 「天山禅師」がどういう宗派であったのか、今となっては分かりません。我が家にあった古い仏壇に置かれた僧の絵を、祖母か「隠元禅師」だと子供の私に教えてくれたことがあり、また、祖父「明圓」の持仏が「阿弥陀如来」であったことから、禅宗でも「臨済宗」か「黄檗宗」ではないかと思っていました。ところが、最近インターネットで、調べてみると、「天山」が住職を務めた寺のあった奈良県吉野郡東吉野村麥谷あたりは、曹洞宗のエリアなのです。現存する寺では麦谷の「禅昌寺」「竜渕寺」、大豆生の「汲泉寺」などです。ひょっとすると祖母が「道元」を「隠元」と言い違えたのかなあ?などと思うようになりました。つまり、「天山」も「曹洞宗」ではないのか、ということです。

 木瓜爺が小学校1年の頃、母に連れられて、東吉野村に行きました。「天山禅師」は既に亡くなっていました(大正年中没、過去帳の記録、年数読めず)が、この「天山禅師」の弟子である「浅井和尚」(この名前だけ記憶に残っています)が、「天山」が住職をしていた寺を継いでおり、そこで「天山」の妻であった「村岡寛恵」(つまり、私の曾祖母にあたります)を母親のように養っていて下さいました。私達は、この曾祖母を「麦谷のおばあちゃん」と呼んでいたのでした。この曾祖母は安政5年(1859)の生まれ、亡くなったのは昭和20年(1945)9月。戒名は「天真院満室貞光大姉」。我々は、東京に来ていまして、さらに終戦直後の混乱の最中でしたから、お葬式にも行けませんでした。この時、参列出来ていれば、これから書く記憶話が、ずっと正確になっていたでしょう。
 木瓜爺の小学1年の頃に戻ります。先ほど書きましたように、大阪に住んでいた私は、夏休みに、母に連れられて、この曾祖母の住む寺に遊びに行ったことがあるのです。この時に、「天山」について、いろいろな事を伺うチャンスはあったのですが、なんせ数え年7才の子供の時ですから、そんなことは無関心。寺の庭に植えてあった「ミニトマト」の実を囓りながら、村の子供達の遊ぶ姿を「漆の木」に掴まって眺めていました。・・・・子供達が何か注意をしてくれているらしいのですが、言葉が分かりません。何を注意してくれていたは、後で分かりましたが「漆の木につかまると、かぶれるぞ」だったのです。都会ッ子の私には「漆の木」という知識が欠落していました。幸いに、かぶれもしないで、何日かを過ごし、「故郷」というものを味わったのです。ただ、私が60才に近づいた頃、大台ヶ原を車で訪ねたとき、この寺を探そうと、東吉野村を走ったのですが、記憶に残っている風景とほぼ一致する場所を見つけたのは、「麦谷」の隣の「大豆生」という場所でした。徒歩で川を渡り、杉木立の細道を上っていった所にあった無住に見える寺には「妙見院」とありました。本当にそこが遊びに行った寺だったのかどうか、よく分からないのです。最近のインターネットでの地図確認では「汲泉寺」か、其の少し手前あたりか、と思われます。

「天山禅師」の話に戻ります。竹田家を出家されたあと、どのような修行を積まれたのか、興味がありますが、全く分かりません。「曹洞宗」であれば、永平寺などで修行されたのでしょう。養子「明圓」にまつわる話のほうから推察すると、明治10年頃には、京都の寺におられ、明治15年頃には、愛知県の方に移られたようです。最後の奈良県東吉野村では、3寺の住職を兼ねたと母から聞いています。そのうちの一つが、曾祖母が暮らしていた寺でしょう。なお、「寛恵」は、奈良県櫻井の出身で、年齢も随分離れていますから、天山が奈良に移ってから連れ添ったのでしょう。
 「天山禅師」と私とは、DNA的なつながりはありません。しかし、以前に、こういうことを言われた記憶があるのです。どこで誰に言われたのかハッキリしないのですが、「守護霊」の話。「私の背後に えらいお坊さん がついて守ってくださっている。」というのです。勿論、その時は、あはは、それは有難い・・で、終わったのですが、もし、そういうことがあるのだとしたら、それは「天山禅師」なのではなかろうか・・・と、最近思い始めたのです。これが、どうしても「天山禅師」のことを書いておきたいという「理由」なのです。
 次回は、「天山禅師」の「養子」になった「学柳明圓沙門」のお話です。これは、一回では書き切れそうにありません。


2017年2月11日土曜日

捨ててこそ(5): APS-C デジ1眼

書棚を整理していた妻が、「これ捨てても良い?」と「ことわざ格言集」を持って来ました。探しても見つからなかった本です。いつの間にか、置いた書棚が別の場所になっていたのでした。なぜ、それを探していたかというと、「空也上人」の、「捨ててこそ」について書かれていた筈だからでした。早速調べて分かったのは、「空也上人の和歌」が、あやしげな格言の元兇であるということでした。それは、『山川の末に流るる橡殻(とちがら)も 身をすててこそ 浮かぶ瀬もあれ』 です。これは、武道の「死中に活を得る」という言葉と同じ意味で言ったということになっているようです。
 しかし、以前に、こんな記事を見ました。「一遍上人」の研究をされている方のブログですが、『一遍上人語録』の現代語訳だそうです。こちらの、「捨ててこそ」の方が、本物(?)なのでしょう。

 『むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかが申(もうす)べきやと問ければ、「捨(すて)てこそ」とばかりにて、なにとも仰(おおせ)られずと、西行法師の撰集抄に載(のせ)られたり。是誠に金言なり。
 念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨(すて)、善悪の境界をもすて、貴賎高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟をもすて、一切の事をすてて申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤(もっとも)かなひ候へ。かやうに打あげ打あげ(注:高く高く)となふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界、皆浄土なり。外に求(もとむ)べからず、厭(いとう)べからず。
 よろづ生(いき)としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預(あずかる)にあらず。またかくのごとく愚老が申事も意得(こころえ)にくく候はば、意得にくきにまかせて愚老が申事をも打捨(うちすて)、何ともかともあてがひはからずして、本願に任(まかせ)て念仏したまふべし。
 念仏は安心して申も、安心せずして申も、他力超世の本願にたがふ事なし。弥陀の本願に欠(かけ)たる事もなく、あまれることもなし。此外にさのみ何事をか用心して申べき。ただ愚なる者の心に立かへりて念仏したまふべし。南無阿弥陀仏』
木瓜爺が思った通り、他力本願なればこその「捨ててこそ」ですねえ。「阿弥陀仏」を信じない限り、すべてを捨てることなど無理です。一遍上人には、残される家族もありません。もともと、出家という形で家族を捨ててしまっているのです。
凡人には無理だと分かれば、「捨てるものもあれば、残すものもある」と、割り切りましょう。どうせ、死ぬときは、なにもかもこの世に捨てて行くのです。ただ、残すものというのは、遺族の負担になると思うので、出来るだけ少なくしておきましょう。
木瓜爺の趣味、いろいろ有ったのですが、捨ててしまったものもあります。捨てざるを得なかったと云うべきかな? 若い頃は、履歴書に格好良く「趣味 音楽鑑賞」などと書いて、クラシックは少なかったのですが、ジャズ、ポピュラー・ソング、ウエスタンなどを楽しんでいました。だいたい其の頃は、音に関する仕事でしたから、耳を酷使していました。ところが、ある帯域の音が聞こえなくなってしまうというタイプの「職業性難聴」になったのです。それまでの仕事が出来なくなり、耳による評価ではなく、視覚化・数値化された状態で考える仕事に移って行きます。
そこまではまだ良かったのですが、ある年の冬、風邪を引いて、高熱を出し、抗生物質の薬を飲みながら何日か寝て過ごしました。 それがなおった日に、起き上がって、久しぶりにステレオを聞こうとしたら、片方のチャンネルが音が出ない・・・スピーカーが壊れたのかと思ったら、なんと、耳の方が壊れていたのです。耳鼻科に治療に通いましたが、突発性難聴ということで、回復の兆しもなく、右の耳が殆ど聞こえなくなりました。そうなってしまうと、もう音楽を聴く気にもなりません。「趣味 音楽鑑賞」などと書けなくなってしまいました。オーディオの装置も、殆ど捨てました。現在残っているのは、レコード・CD・カセット何でも聞ける小さなマルチ・プレーヤー1台です。「般若心経」のテープなどが演奏?されることがあります。
次は「趣味 写真」のほうの話です。 つい先頃なのですが、長いこと使っていたNIKONのD300というカメラが故障してしまったのです。修理して使うつもりでいたのですが、NIKON では、販売終了後7年は部品を保存しているけれど、それ以降は保証出来ないのだそうです。試しに、修理依頼をしてみたのですが、診断はしてくれたらしく、「**基板が不具合」ですが、部品がないため修理不能です と戻って来ました。修理の手段としては、独立したカメラ修理工場に依頼するという方法が残されています。こういう工場では、廃棄状態になったカメラを分解して、修理用の部品をストックしたり、自作できるバーツは同じようなものを工作機械を使って作ったりして、可能な限り対応してくれます。ですから、問い合わせてみる意味は残っています。
しかし、あっさり、「形ある物は滅す」と、捨ててしまう考え方もあります。また、欲しければ、中古品を購入する事もできます。修理代と中古品の価格は、ほぼ同額、若しくは修理代のほうが少し高くなるでしょう。
長い間の相棒ですから、修理出来るものならしてやりたい。これが、日本人の考えでしょう。でも、直してどうなる? 別に今までより便利にはなりません。木瓜爺迷っている内に、いっそAPSーCサイズのデジ1眼そのものを捨てたらどうなる? と、考え始めました。フルサイズのデジ1眼D700はまだ健在です。ただ 、使用年数からいうと、やがて、同じような運命をたどることになるでしょう。それと、1台では心許ないという感じがあります。そう考えると、もっと新しい機械を補充したいという欲も出て来ます。

コンパクト・カメラは何台かありますから、写すだけなら、新しいものの必要はありません。でも、「もうちょっと高品質の写真を写したいという欲」が出ると、「新しい機械 という物欲」に育ってしまいます。この写真など、コンパクト・カメラでは撮せませんからね・・・担当したのは、壊れてしまったD300 です。
いやはや、やっかいなのは「欲」ですね。・・・・ まさに「うろじウロウロ」です。

文字だけ2500字・・・読むのに疲れますね。目休めの写真を入れておきましょう。
今日のブログは、Open live writer から投稿出来ませんでした。 理由はこれから調べます。

2017年2月6日月曜日

test投稿: OpenLiveWriter からの投稿テストです

いずれ、「木瓜爺撮歩」のシリーズをこちらに書くことになるだろうと思い、従来とあまり変わらぬスタイルで投稿出来るかどうかのテストをしております。
テストが終わりましたら、削除の予定です。
文章と写真が混在しますので、いくつかのレイアウトを作って試しておきます。まず画面の右側に写真がある形を作ります。
D7A_7632- mizudori
昨日歩いた昭和公園の池にいた水鳥から・・・画像サイズは、マウスで適当に拡大しています。
時々行う2枚並べの形を作ります。D7A_7634- 水仙




 WRITER上では上手く並んでいますが、投稿したときどうなるか・・・・
 とりあえずこの形で投稿して見ます。

下書き編集の状態では、写真の大きさが変化しています。これは標準サイズになっているのが? そのため、レイアウトがみだれました。写真と写真の間に文字列が入り込みました。 でも読めないほどではありません。
これで、公開してみます。
公開した画面は、元の投稿画面のレイアウトを保ちました。編集時点の画面の違いに慣れる必要はありますが、ナントカやれそうです。  めでたしめでたし です。・・・・で、すててこそ(5)を投稿したら、受け付けてくれません。
文字数の問題か、画像の大きさなのか? ウロウロしてしまいます。

2017年2月2日木曜日

捨ててこそ(4)

「実行有るのみ」と、まず始めたのは、デジタルカメラを使い始めたころ作っていたインデックス・ファイルの整理です。フィルム時代の「コンタクト・プリント」の習慣が残っていましたから、全部の画像を一覧形式で印刷し、整理番号をタイトルなどを書き込んで、バインダーファイルに綴じていたのです。最初の頃は、一回カメラを使っても、一枚の印刷で済んでいたのですが、デジタルはフィルムと違って沢山写せるのだ・・・と、段々一回のショット数が増えて行きました。40カットを1枚に納めて10頁などということが起こるようになり、KING JIMの厚さ90mm程有るファイルが並びだし、書棚を占領してしまいました。この方法は駄目だなあと、いつしか中止したのですが、これをまず、半分に減らそうと、1回の撮影のプリントを1枚だけ残して、ほかは捨てるという作業を始めたのですが・・・「おう、これは孫を連れて**へ出かけた時だなあ・・・」なんて思ってしまうと、ここに写っているのは可愛いな・・・この頁は残しておくか・・・なんてことになりまして、ちっとも減らないのです。

捨てるためには、感情を捨てないといけないらしい・・・

昔の研究資料・レポートの控えなども、もういらない筈なのですが、うっかり読み始めると、この時苦労したなあ・・・などと、捨てる気力がなえて来ます。 純粋の価値以外の思い出的なものを捨てるということがなかなか出来ないのですね、 というわけで、木瓜爺 苦闘中です。まだ悟れません。

冬の間に片付けて、などと思っていたのに、もう梅の花が咲き出しました。

2017年1月21日土曜日

捨ててこそ(3)

「物を捨てられない族」もいます。 幼いときに、大切にしていた物を大人(多分家族)に捨てられてしまって悲しかったということのトラウマとして、何でも抱え込んでしまうという状態の人も多いそうです。我々年寄り世代では、太平洋戦争から敗戦後の「なにもない生活」の経験から、何でも「また使うことがあるかも知れない」、「捨てるのはもったいない」と、しまいこんでしまうクセが付いています。
 木瓜爺も、使い古したファイルを、「また使う日もあるだろう」と段ボール箱に入れてあるようです。しかし、そのことを忘れて、新しいファイルやホルダーを買ってきてしまうのです。
 先日、そういう段ボール箱を見つけて、処分しようと思いました。ところが、ゴミとして出すには、分解して、紙/金具/プラスチック を別々に出さねばならないということなので、この分解作業が大変・・明日にしよう・・・と、のびのびになり、また忘れてしまいました。
 収入が少ない時代に子育てをしてきた木瓜爺にはよく理解出来ないのは、十分、物を持っているのに、同じ様な物を追加購入する世代があるようですね。ネット通販がそれを助長しているという説もあります。衝動買いを重ねて、置き場がなくなって、新品ゴミ屋敷になるという不思議な世の中だそうです。「物欲」ではなくて、「買う」という行動欲なのでしょうか?・・・捨てる必要があるのは「欲」だというお話は、また次の機会として・・・

 昔頂いた年賀状をかたづけるのに、全部シュレッダーに掛けないといけない(個人情報保護)ということで、これも延期。使っていたシュレッダーが摩耗故障状態になったので、仕方なく新しいのを購入したのですが、『壊れたシュレッダーを「燃えないゴミ」として出せるのは、いつになる?』

 昔は、年賀状とかアルバムの写真とかいうものは、庭の片隅で燃して処分していました。各家庭には、小さな焼却炉があったのですが、ダイオキシンが発生するとかで、強制的に撤去されてしまったのです。焼却が出来なくなってから、家の中にゴミが溜まりだしたように思えます。

 まあ、こういうものは、面倒がらずに、少しずつゴミ収集に出して行けばよいのでしょう。解決策は「実行あるのみ」。

 最近困るなあ、と 思うのは、デジタル遺産 です。早い話が、PCの中の情報。これは、生きている間どんどん溜まって行きます。捨てると生きて行くのに困るものもあります。死んでしまうと、他人には扱えないものも出て来ます。・・・どうすりゃ良いのだ? ・・・また考えます。

2017年1月20日金曜日

ボケのはじまり(1)

「捨ててこそ」 の 方を書かないといけないのですが、今日我が身に起こった現象を書いておくことにしました。多分、これは「徘徊状態」が始まる前兆だと思うのです。
 カメラ屋に、D300をオーバーホール依頼しようと出かけた時の事です。いつもは電車の「下りは最前部」、「上りは最後部」に近い場所に乗るくせがあるのですが、この日は下車駅の改札に近い中央部に乗るべく、ホームの中程のベンチに座りました。
 手元の手帳を眺めていて、ふっと顔を上げたとき、自分が上り側ホームにいるのか、下り側ホームにいるのか、分からなくなってしまったのです。
 分からなくなった最大の理由は、この日「太陽」が出ていなかったのです。普通ですと、意識しなくても日射しのある方向で自分がどちらを向いているか判断しているようです。
 今日のように曇った日は、コンパスを持って外出しないといけないのかなあ・・・
同様の状態は、地下鉄でもおきそうですね。夜道も危険です。 徘徊予備軍としては、留意しましょう。

2017年1月14日土曜日

捨ててこそ(2)

残された「遺物」で、始末の悪い物というと、「趣味」に関するものでしょう。これが、「お宝」と呼べるようなもの、例えば「骨董品」というような価値があるものなら、専門家にたのんで処分ということも出来るでしょうが、そうでないと目をつぶって全部廃棄になってしまうのでしょう。他人に価値が分からないものの一つに、書物があります。
木瓜爺も終活作業の開始に当たって、「趣味に係わる書物」の処分を考えました。木瓜爺の趣味の一つに「将棋」があります。これは、小学生になるころに教わり、高校生くらいから、本格的に書物による自習をし始めています。大きな買い物はしていませんが、それでも500冊くらいの蔵書になっていました。
これは、捨てておかないと遺族が困るだろう・・・中には、今では入手困難な資料もあるし、自分で古書専門店に引き取ってもらうことにしよう・・・と、考えました。ただ、一方でこんな考えも出て来ます。「身体が動かなくなって来た時に、せめて頭の体操をするツールを手元に残して置く方が良いのじゃないかな?」
散々迷ったのですが、兎に角「蔵書リスト」を作りました。購入金額(書物の定価)を計算してみると、思っていたよりも少額でした。これは、昔の本は小さい金額ですから、自然な結果です。次に
実際に売られている古書の価格を調べてみました。それから計算すると、半値とみても、五万円くらいにはなるだろうと思えました。しかし、作ったリストを、専門店に送り込んで見たところ、「最近は、古書も売れません。全部で、一万円程度なら引き取れます」という返事。ただし、送料は、着払いでよいということでした。 仕方がないなあ・・・著者からサインを頂いた記念品的価値のあるものと、傷んでしまって商品価値を著しく減じているものを手元に残し、段ボール箱数個を、送り出しました。 小さな書棚一つが減りました。外のジャンルの書物は、まだまだ残っています。

この例でよく分かったのは、自分の集めた書物などは、自分で考えるほど価値がないものであるということです。本当に価値のある「希少本」などは、インターネット・オークションなどで評価して貰うのも一法かも知れません。

 

2017年1月11日水曜日

捨ててこそ(1)

 年老いた家族が死にますと、残されたものは後片付けが大変です。故人が大切にしていたものが、二束三文にしかならないということもしばしば、リサイクルショップが引き取ってくれないから結局有料のゴミ処分になってしまったという話をよく聞きます。死ぬまでに自分で出来るだけ片づけて逝け、というのが終活の大眼目らしいですね。
しかし、「言うは易く行うは難し」で、木瓜爺の「うろじウロウロ」でも、この問題が暫く取り上げられるでしょう。当分の話題として、「捨ててこそ」を設定してみました。

「逝く」という事になると、どうしても神仏的な話も絡んできます。まず、その面から、木瓜爺自身の心の問題を説明してみます。かなりチャランポランなのですが、木瓜爺は一応「仏教徒」の端っこにおります。仏様の代弁者としての「僧」は、「人間は無に生まれ、死ぬというとで無に帰る」というような事を云います。生まれると云うことは「無」じゃねえだろう・・などと、ひねくれ木瓜爺は納得しないのですが・・・

木瓜爺は、普段「曹洞宗」のお経を読んでいます。土曜日だけ「浄土宗」のお経を読みます。これは、祖父母の代には「浄土系」だったのを、祖父が死んだ時に新しく墓を作る事になり、見つけたお寺が曹洞宗だったために起きた現象なのです。週一日だけは、祖先の為に経を読むことにしているのです。他の日は、今生きている人々の為に、佛のご加護をお願いしているのかも知れません。

共通のお経もありますが、違う部分で云いますと、曹洞宗の場合は「修證義」という明治になってから作られたお経があります。道元の教えを、現代語に近い形で分かりやすく(?)まとめたものと思われます。是などは明らかに、今生きている人間のための経です。このお経のなかで、木瓜爺が心に刻んでいる一節を書いて見ます。
『・・・、無常忽ちに到るときは国王大臣親ぢつ従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり、・・・』
死ぬときは誰にも助けてもらえない、ひとりぽっちだよ、生きているときにやった「善悪や業」だけはついて行くけれど、この世のものは、全て捨てて行きなさい・・・ですねえ。

話を変えます。ブログの題名にした「捨ててこそ」という言葉を考えてみます。
空也や一遍が云った言葉 「捨ててこそ」 を、インターネットで検索すると、何故か「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」 という格言(?)のようなものの解説になってしまいます。
なんとも不思議な現象です。
 この格言めいた言葉は、「命を捨てるつもりになれば、成功するチャンスがあるかもしれない」というような意味でしょう。 空也や一遍の思想とは全く違う次元の話です。

空也上人の場合は、醍醐天皇の皇子という「身分を捨てる」と云うところから始まっています。命ではないのです。一遍上人の場合は、「捨聖」とまで云われるほど捨てまくりましたが、最後は栄養失調で死んでしまいます。浮かぶ瀬を求めたわけではありません。
ここで、このお二人が、いずれも「阿弥陀如来」の信者だったことを思い起こしましょう。言い換えると「他力本願」と言われる宗派なのです。最後は、阿弥陀様にお任せできるから、総てを捨てられるとも云えそうです。 

ということで、木瓜爺は何を捨てて行けるのか、どう捨てればよいのか・・・ぽちぽち考えます。