2017年7月22日土曜日

2017/07/22: My Family Story (8)  唯法徹心居士 その3

二代目「唯法徹心居士」が、三代目となるであろう若き日の「一修山慧居士」の進学や就職のときに、繰り返し云った言葉があります。
正しくは「寧為鶏口 無為牛後」 史記の蘇秦傳に出てくる言葉ですが、日本流の格言としては「鶏頭牛尾」と云われています。「鶏頭となるも、牛尾となるなかれ」です。

こういった裏には、自らの信念があり、それを継いでほしかったのでしょう。「一修山慧居士」が社会人となり、その妹も母の「一法開心大姉」が開いた美容院を助けて働くようになると、「唯法徹心居士」は、自分の夢に挑戦する気になります。規模は小さくても、自分の思い通りに仕事をしたいという夢です。それは、意外とも思われる分野でした。
 幼児の為の遊具作りなのです。当時幼稚園や保育園の必要性が高まっていましたから、着眼点としては悪くなかったようです。
 学歴としては文化系ですが、趣味的には、結構科学系にも詳しく、写真では、ガラス乾板に感光乳剤を塗って、フィルムに相当するものを作って使ったり、現像薬を自分で調合し使っていました。引き伸ばしも自宅でやっており、木瓜爺は見て覚えました。
 戦時中に自宅で使っていた「高一のラジオ」(当時のラジオは真空管式ですが、4本の真空管が使われていたので、並四 と呼ばれており、もう一本真空管を増やして高周波増幅を付けた感度のよいのが 高一 だったのです)は、自作の物でした。戦争の末期から戦後にかけては、子供の木瓜爺こと「一修山慧居士」に、変圧器を作らせたり、電動機を作らせたり・・・そういう材料をどこからか見付けて来ては、参考書と共に子供に与えていたのです。
残念なことに、純技術的には力不足で、ちょっと巻き線が細すぎ、完成した変圧器を使ったら、熱を持って煙が出て来て、大慌てになりました。危険でしたが、面白かったです。木瓜爺つまり「一修山慧居士」が、大学に入るとき電気科を選んだのは、こういう子供の頃の工作体験があったからでしょう。
話を戻しまして、「唯法徹心居士」の作った遊具というのは、例えば、幼児が2m程離れて向かい合って腰掛け、足元のペタルをこぐと、メリーゴーランドのように回り出すというようなものです。安全性などに工夫の余地は有りましたが、電気のような動力を使わず、子供自身の力で動きを造り出して遊ぶものが多かったように思います。
いくつかの特許をとって、数人の職人さん達との会社を作り、商品化し、全国の幼稚園などを回って売り込みました。遊具などのない新設の幼稚園や保育園では、当然欲しがります。納品まではほぼ順調にいったのです。ところが・・・金を払ってくれないのです。これらの幼稚園や保育園は、市などの助成金が頼り、助成金がでたら払います・・・で、引き延ばすわけです。全国販売をしたものですから、集金に行く費用だけでも大変、行っても払ってくれない・・・忽ち、資金繰りがショート。あえなく、倒産です。
「唯法徹心居士」の夢は、数百万の負債を残して消えました。残念だったろうと思います。残された人生は、サラリーマンに戻り、この負債を消すことに使われましたが、利子支払いが精一杯、最初に借りた元金の部分は「唯法徹心居士」の死後、「一法開心大姉」と「一修山慧居士」で、返済処理をしました。
この二代目の失敗を見て、三代目「一修山慧居士」は、鶏口となるのは、技術だけでは駄目だ、経営学、経済的知識、人間などの総合的な理解力が必要なのだと知り、自らの方向転換を図ります。
「唯法徹心居士」が「お爺ちゃん」になって2年目、還暦の祝いに、「一法開心大姉」と夫婦旅行をしていらっしゃいと、子供二人が、周遊券と宿泊券を用意して、伊豆の旅行に送り出しました。これは嬉しかったようで、戻ってから、旅の様々の夫婦げんかを披露してくれていました。ところが、春の初め、夜になるとひどい咳をするので、老人性結核だと、孫に移してしまうと大変だと受診することを奨めたところ、本人は武蔵境にある日赤結核病棟で検査を受けます。この選択が、彼の最後の不運だったのです。肺癌だと思わなかったのは、前年に肺癌で死んだ「芳桂院小丘大姉」の場合と、出現している症状が全く異なっていた為でした。
日赤で撮した胸部レントゲン写真を借りてきた事がありますが、別の病院のベテラン医師は、一目見て、「これは肺癌だよ、この大きさなら手術で取れるかもしれない」・・・しかし、日赤の結核専門医は、入院させてパスか何かを飲ませていたのです。この間約一ヶ月。ピンポン球より小さかった癌組織は、こぶし大に育ってしまいました。これは、結核非ずと、がんセンターで再検査し、肺癌と言われましたが、ベッドがなくて収容出来ないというので、別の病院を見つけ、転院させたのですが、特すでに遅しでした。そういえば、この手術の時、輸血する血を、木瓜爺の勤務していた会社の方がたに献血していただいて助かりました。十分なお礼も言えず、そのままになっていたことを、今頃思い出しました。本当にありがとうございました。
手術直後、摘出した肺の患部を指でおして、正常部分との堅さの違いを知りました。このとき、ずばっと聞きました。「あと、何ヶ月ですか?」 つられた医師が「三ヶ月です」、すぐ慌てて打ち消しましたが、覚悟しました。
手術後に、段ボールの切れ端に本人が書き残した句がありました。
「肺ひとつ、捨てたる秋の 夜長かな」 悲しい句です。 
一時は退院出来るかなと思った程度の回復に見えたのですが、十一月の終わりに、腹部にもっこり腫瘍が現れました。転移再発でした。亡くなる一週間ほど前、まだ、33才だった木瓜爺の手を握り、「あとをたのむよ」と言い残しました。これから、少しのびのび遊んで貰おうと思っていたのに、早すぎる旅立ちでした。
「あとをたのむよ」と云った責任上、母が亡くなるまで、ずっと木瓜爺の健康を守っていてくれたようです。節煙はしたけれど禁煙まで行かない木瓜爺が、肺癌だといわれずに済んでいたのですから・・・
次回は、、「一法開心大姉」の方を、さらっと書きます。






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