2017年1月11日水曜日

捨ててこそ(1)

 年老いた家族が死にますと、残されたものは後片付けが大変です。故人が大切にしていたものが、二束三文にしかならないということもしばしば、リサイクルショップが引き取ってくれないから結局有料のゴミ処分になってしまったという話をよく聞きます。死ぬまでに自分で出来るだけ片づけて逝け、というのが終活の大眼目らしいですね。
しかし、「言うは易く行うは難し」で、木瓜爺の「うろじウロウロ」でも、この問題が暫く取り上げられるでしょう。当分の話題として、「捨ててこそ」を設定してみました。

「逝く」という事になると、どうしても神仏的な話も絡んできます。まず、その面から、木瓜爺自身の心の問題を説明してみます。かなりチャランポランなのですが、木瓜爺は一応「仏教徒」の端っこにおります。仏様の代弁者としての「僧」は、「人間は無に生まれ、死ぬというとで無に帰る」というような事を云います。生まれると云うことは「無」じゃねえだろう・・などと、ひねくれ木瓜爺は納得しないのですが・・・

木瓜爺は、普段「曹洞宗」のお経を読んでいます。土曜日だけ「浄土宗」のお経を読みます。これは、祖父母の代には「浄土系」だったのを、祖父が死んだ時に新しく墓を作る事になり、見つけたお寺が曹洞宗だったために起きた現象なのです。週一日だけは、祖先の為に経を読むことにしているのです。他の日は、今生きている人々の為に、佛のご加護をお願いしているのかも知れません。

共通のお経もありますが、違う部分で云いますと、曹洞宗の場合は「修證義」という明治になってから作られたお経があります。道元の教えを、現代語に近い形で分かりやすく(?)まとめたものと思われます。是などは明らかに、今生きている人間のための経です。このお経のなかで、木瓜爺が心に刻んでいる一節を書いて見ます。
『・・・、無常忽ちに到るときは国王大臣親ぢつ従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり、・・・』
死ぬときは誰にも助けてもらえない、ひとりぽっちだよ、生きているときにやった「善悪や業」だけはついて行くけれど、この世のものは、全て捨てて行きなさい・・・ですねえ。

話を変えます。ブログの題名にした「捨ててこそ」という言葉を考えてみます。
空也や一遍が云った言葉 「捨ててこそ」 を、インターネットで検索すると、何故か「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」 という格言(?)のようなものの解説になってしまいます。
なんとも不思議な現象です。
 この格言めいた言葉は、「命を捨てるつもりになれば、成功するチャンスがあるかもしれない」というような意味でしょう。 空也や一遍の思想とは全く違う次元の話です。

空也上人の場合は、醍醐天皇の皇子という「身分を捨てる」と云うところから始まっています。命ではないのです。一遍上人の場合は、「捨聖」とまで云われるほど捨てまくりましたが、最後は栄養失調で死んでしまいます。浮かぶ瀬を求めたわけではありません。
ここで、このお二人が、いずれも「阿弥陀如来」の信者だったことを思い起こしましょう。言い換えると「他力本願」と言われる宗派なのです。最後は、阿弥陀様にお任せできるから、総てを捨てられるとも云えそうです。 

ということで、木瓜爺は何を捨てて行けるのか、どう捨てればよいのか・・・ぽちぽち考えます。

 

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