2017年6月30日金曜日

2017/06/30 My Family history 〔6〕唯法徹心居士 その1

「学柳明圓沙門」の長男、「芳桂院小丘大姉」の弟 に当たる「唯法徹心居士」は、村岡家の二代目に当たります。
この人は、木瓜爺の父ですが、記録に残るような業績は残しておりません。ですから、文字になるのは、これが最初かも知れません。
戸籍謄本から始まります。 俗名は『村岡唯矣』 『大阪市東区東高津北之町九十五番地に於いて 明治四十年五月十三日出生 父村岡明圓届出 』 此の後は、記念品的に残っていた、様々の記録をつないで行きたいと思いますが、逆によくまあこんな物を残してあるなあと感心されるかも知れません。多分、「唯法徹心居士」の母、「元柳明美大姉」が大切に残していたのでしょう。

大正三年四月 に、『大阪府大阪市道仁尋常小学校に入学』したようで、 大正四年三月に第一学年の修業証書と優等賞で紙挟壱個をいただいています。大正五年三月二十四日には、第二学年の修業証書と優等賞で鞄壱個。面白いなあと思ったのは、修業証書の裏面に「第一期種痘完了大正三年四月五日」という証明がされている事です。これが、翌年、つまり第三学年の修業証書の裏面には、「第二期種痘完了 大正六年三月十二日」と追加されています。調べて見ると、木瓜爺の国民学校修了証書にも同じような証明書が付いていましたから、制度として行われていたようです。そして、「優等賞」のほうは「算盤一面」。
第四学年になりますと、転校していまして、大阪市天王寺第五尋常小学校になっていますが、ここでは、「純銀賞牌壱個 硯箱壱個」これも優等賞らしい。不思議なのは、「第二期種痘」をまたされていまして、大正七年三月九日。 第五学年は「操行善良賞」で 「筆箱壱個」。
大正九年三月二十四日 「卒業証書」です。「褒賞」のほうは「操行学力共に優秀なり」で、「手箱壱個」です。良く稼ぎましたね。
小学校を卒業した唯矣は、天王寺中学校に進みます。中学時代の記録は卒業証書だけです。唯矣自身で書いた経歴書の断片が残っていましたので、それを書きます。
『大正十年四月 大阪府立天王寺中学校に入学。  大正十五年三月 同校卒業。
昭和二年四月 大阪外国語専門学校支那語部に入学
昭和五年四月 株式会社高島屋に入店  現在に至る
現職 催部主任 高島屋青年団支那語講習会 講師』
 外国語専門学校の「支那語部」に入学したのは、おそらく当時の世相の反映でしょう。大陸への進出に大きな夢を描いての事だろうと思います。唯矣は、この外国語専門学校の学生の時に、仲間達と中国訪問の旅をしています。よほど大きな感銘を受けたのでしょう。死ぬ間際に、その旅行の体験を書き残しています。B5版のノート6冊を使っています。 万年筆で書いていますが、木瓜爺には読めない崩し字もあって、完読出来て居ません。書かれた時期的には、遺書に近いものなので、木瓜爺も死ぬ前に読んで、書き残してやりたいと思っていますが、間に合うかどうか・・・
 卒業後の「高島屋」への入社は、学柳明圓沙門のコネがあったからですが、高島屋自体も、中国への進出に取りかかっていましたから、必要な人材だったのでしょう。
大阪外国語学校が発行した「推薦状」が残っています。宛先が、高島屋図案部の方になっています。かって学柳の部下だった方でしょう。『今春卒業予定の支那語部生徒 村岡唯矣の申し出により別紙推挙書及び学業成績表を送付・・・・』
学業成績は「良」ですから、ナミですね。人物考定というところを見ると、「品行 方正、性質 敏捷、 特徴 野球部選手・文章に長ず。」
どうやら、学生生活の後半は、野球に夢中になっていたらしい。勿論硬式です。キャッチャーをやっていました。ユニホームなども残っていまして、木瓜爺が中学生の頃、お下がりを着ていました。体格が違うので、だぶだぶでしたが、袖をかすらせるデッドボールには有利! 残念、木瓜爺のやった頃には、軟式にはデッドボールがありませんでした。
文章に長ずというのは、家の環境でしょう。学柳、小丘が居たわけですから、経文をはじめとする「漢字」にも馴染んでいます。支那語を選ぶ位ですから、中国文学にも詳しかったでしょう。ずっと後の話ですが、蔵書に「金瓶梅」などがあって、子供の木瓜爺が覗いたら、まだ早い!と叱られました。
父と母が知り合ったのは、高島屋です。母(一法開心大姉)が、女学校を出て、高島屋の売り子として入社し、父がつり上げたようです。母は18才で結婚し、19才で木瓜爺を生んでいます。その直後、唯矣は、大陸進出のブームに乗って、「チンタオ(青島)」「ペーピン(北京)」などの支店長を務めます。もう結婚していましたが、単身赴任で、2~3年向こうに居たようです。「乾燥牛肉」などという物を送ってくれて、それを食べるのが楽しみだった木瓜爺です。太平洋戦争が始まる直前、帰国したのですが、戦争が順調だった運命を変えてしまいます。そのお話は、次回に・・・・

2017年6月22日木曜日

2017/6/22: My Family history 〔5〕 芳桂院小丘大姉

学柳明圓沙門の長女 「芳桂院 小丘大姉」の資料を失ったと書きましたが、それを書き写したと思われる ノートを見つけました。私の母が書いたものと思われますが、筆跡がかなり乱れているので、或いは 死ぬ間際に思い出してメモしてくれたのかも知れません。それを、ここに転記しておくことにしました。
『 村岡 登貴 (明圓 長女)
 書道は 山本竜山先生に師事。
 絵画は 河辺青蘭先生に師事 画号を「香波」という。後、大阪美術学校で、矢野橋村先生に師事 画号を「小丘」と改める。
 昭和五年 帝展(現在の日展)に初入選 以後 帝展に二回
 日本南画院大阪美術展に入選数回 大阪女流画家連盟同人
 戦争の最中から 東京都北多摩郡国分寺町に移り住み、戦後 「芳桂塾」を開き、習字絵画を教える。 
 昭和四十一年十一月八日 没 享年六十四才 』


朝日新聞社 発行の「南画展」という書物に 「第六回南画展 展示品二六番「田家風味」村岡小丘」という作品が掲載されているそうです。

 木瓜爺の幼い頃の記憶では、大阪の家の二階に、大きな画室があり、屏風絵などを描くときは、板を渡して其の上に乗って書いていたようなイメージが残っています。小学校に入る頃は、繪と書の家庭教師でした。

 戦争の最中、長男唯矣一家(つまり、木瓜爺一家)は、東京に移ります。暫くして、やや広い家に移れたので、同居出来ると、母ゲンと姉小丘を東京に呼び、一緒に暮らすようになりました。ただ、当時は荷物の引越は困難で、身の回りの品だけを持って、東京に来たようです。

 東京に移ったことで、小丘は画壇から離れてしまう結果になりました。大阪美聚学校以来のお友達で、子供の私もお目にかかっているのは、「融紅」さん。戦後も活躍された先生です。「融紅鸞」さんは、同じ矢野橋村の弟子、つまり同門です。そして、戦後はラジオ大阪の「悩みの相談室」で人気者となりました。「えらいこと、はじめはったなあ・・」などと、電話していたように思います。この方は昭和57年5月26日死去。76歳。大阪出身。大阪美術学校卒。

そういう点では、小丘は気の毒でした。国分寺のあばら屋で、飯炊きの竈と格闘することになってしまったからです。

 戦後の生活で、小丘ではない登貴伯母は、母代わりという位置でした。私の母は、父が職に恵まれないために、美容師として働きに出ていました。そのため、伯母が「おさんどん」の役を果たしてくれたのです。食糧難時代・・・トウモロコシの粉や脱脂大豆の粉をどうやって食べるか、悩んだ末に、センベイを作って朝食にしました。その手焼きセンベイを早朝から焼いてくれていた伯母の姿が目に浮かびます。
 私が高校生になる頃から、前述の「芳桂塾」を開いて、生徒さんと楽しみながら、時には写生旅行なども出来るようになっていました。
 たまたま、庭で転んで、足を捻挫し、其の治療に、下部の温泉、「源泉館」を紹介した所、気に入って湯治に出かけていました。「源泉館」には、滞在中に書いた小丘の繪が残っているにではないでしょうか。

 なぜ、小丘にこだわっているかと云いますと、我が家で最初に癌で死亡したのが、小丘なのです。ただし、若死にした「学柳明圓沙門」も癌だったのかも知れませんが、当時はまだ医学的にもよく分からない状態ですから、除外しています。「小丘」は「原発不明の肺癌」と言われました。レントゲンで、左肺が全く見えないといいますか、肋膜に水が溜まった状態の写真になっていました。そうなる前の源が分からないというのです。
 
 次回は「唯法徹心居士」です。私の父ですが、これがまた「肺癌」でした。

 
(追記 2017/6/28)
小丘の画友について、大物(?)を書き漏らしておりました。忘れていたわけではなく、私が生まれた時に、お祝いに頂いたという繪を探して、お名前を確認したかったのです。今朝やっとしまい場所を思い出しまして、確認出来ました。
『生田花朝』さんです。この方は、年齢的には、だいぶ上の世代でして、小丘にとっては、「大先輩」という感じだったのでしょう。小丘が昭和5年に帝展に初入選したときには、生田さんは10回目の入選をはたしておられます。頂いた色紙は、45才の時のものです。44才の時、帝展無審査ということになっておられます。晩年は「花朝女」という署名落款をされたそうですが、我が家にある色紙は「生田花朝」でした。お亡くなりになったのは、昭和53年ということですから、あの世では、小丘の方が先輩になりました。





 




2017年6月13日火曜日

捨ててこそ(7)  寿命に合わせて

木瓜爺、つくづく「幸せだなあー」と、運命をかみしめることにしました。

 「捨ててこそ」などと気取っても、自分がいつまで生きるのか分からない内は、捨てる踏ん切りがつきません。寿命が自分で分かったら、整理も付けやすいのになあ・・・と、思っていたら、どうもそれが「ほぼ、見当がつく」状態になったらしいのです。

 二ヶ月ほど前から、昔病んだことのある「十二指腸潰瘍」の時と似た軽い痛みを、「十二指腸」のあたりに感じ始め、糖尿病の薬を貰っている医者に「内視鏡」で覗いて貰いました。
 検査結果は「異常なし」です。でも、抑えると、違和感は間違いなくあります。それで、エコーで見て貰うことにしました。すると、やはり、十二指腸の裏がわにおかしな影がある。ということになって、大きな病院に検査依頼。今度はCTスキャンという奴で、身体の輪切りをして貰いました。その結果、「膵臓ガンの疑いあり」 ということです。来週、さらに精密な検査を受けることになりました。どういうことになるか分かりませんが、この「膵臓ガン」というのは、発見が遅れる病だそうです。というのは、自覚症状になる「猛烈な吐き気」「食欲不振」「背中の痛み」・・・といった症状が出るのは、末期に近い時期らしいのです。木瓜爺の場合は、まだ「書かれているような症状」は、全くありません。なにかの間違いじゃないのかなあ? と、思っている位です。

 しかし、この膵臓ガンというのは、十二指腸に包まれたような位置ですから、細胞検査も容易ではないらしい。精密検査で開腹なんて言われたら、どうしようかなあ???と、迷っています。

 それはそれとして、このガンは、5年生存率が6%しかありません。つまり、自分の寿命が見えて来たのです。それが、冒頭の「幸せだなあー」になるわけです。とはいえ、多分、これから本当の「うろじウロウロ」が始まると思います。
 
 そういえば、インターネットで「膵臓ガン」ってどういう病気だ?と調べましたら、翌日から、治療に関する広告が次々と画面に現れます。便利な世の中になったなあ・・・・でも、30年掛けていた「ガン保険」を止めて二年目に、そういう疑いが発生するというのは・・・やはり「ガン保険」は「ガン除けのお守り」だったのですねえ・・・・

 
 さて、まず、何を捨てるかな? 里山用以外の登山案内書は不要でしょうね。今週はこれを捨てよう・・・・

2017年6月10日土曜日

2017/6/10:My Family history 〔4〕 学柳明圓沙門 その3

もう一つの資料、「大阪現代人名辞典」に移ります。これは、大正2年の発行資料です。実はこの系統で、もう一つ新しいものが紛失してしまったようです。それには、学柳の長女、小丘が女流画家として紹介されていたと記憶しているのですが、残念です。
この人名辞典の記述は、前回の蔵前校友録の記録と大差ありませんが、愛知県での活動に触れています。
『村岡学柳君 大阪府の人、田中政一の二男にして、明治七年四月三十日 京都烏丸高辻に生る。長じて後村岡天山の養子となり入てその姓を冒せり。幼少より繪畫々好みしが長ずるに及び、遂に畫を以て身を立てんと志し、今尾景年に師事し、専ら斯道を修めしが、後又た志を転じて図案家たらんとし東京工業学校図案撰科に入る。研修数年技大に進む。卒業の後、群馬県に赴き、物産地図案奨励のため、周く県下を遊歴せり。後愛知県勧業課の招聘に応じ、農商務省井手技師に随行し、大日本図案協会商議院審査員、京都図案会評議員となり、斯界に其の名を知らるるに至れり。従来各地展覧会博覧会等に作を出して江湖の称賛を博し、賞牌褒状を受けたること数回に及べり。曾って明治三十五年東京高島屋呉服店に在るの時、宮内省の下命に依り先帝陛下並びに皇太后陛下の御大礼服考案の光栄に浴せし事あり。その後 同店の大阪本店詰めとなり、その図案部主任として経営に任ずること十年余に及び氏しも大正二年一月辞して同店の顧問となり、傍ら図案の畫に応じつつあり。(大阪府豊能郡櫻井谷村大字南刀根山)』

「江湖の称賛」の意味を解説しないと、いけないかも知れませんね。「江湖」というのは、中国の「江西省」と「湖南省」、ちょっと狭く考えても「長江と洞庭湖」を意味して居ます。それが転じて、「世の中」「世間」というような「広範囲」を意味するようになりました。「広く世間から称讃を得た」という風に解釈して下さい。

「学柳明圓沙門」は、生涯何回引越をしたのか、木瓜爺直接調べたことがないのですが、父や母に聞いたところでは、戸籍の移動をたどるのが極めて困難だったそうです。戦災も絡んで(謄本の置かれていた役所が空襲などで焼けた)、相当苦労し、大阪で不動産業を営んでいた方にもたすけて頂いたようです。
 私の記憶では、長女登貴こと「芳桂院 小丘大姉」は、東京の生まれだったように思います。つまり、高島屋東京店に勤めていた頃に結婚し、長女が誕生したのでしょう。この伯母の戒名に院号が付いていますが、是は、弟の「徹心居士」が、菩提寺の和尚さんに相談して付けた戒名です。伯母は、晩年、国分寺で「芳桂塾」という書道の塾を開いていましたので、それを記念したものです。また「小丘」というのは、画号です。木瓜爺が付けると「芳桂院 登貴小丘大姉」となっていたかもしれません。ちょっと簡略化したようです。

 長男 唯矣こと「唯法徹心居士」は、大阪で生まれています。先ほどの資料によると、
大正二年には「櫻井」にいたようですね。

 学柳はこの移動期間は、全て「借家」だったようです。大正二年に高島屋を辞めたあと、大正六年にまた「十合」に務めたことは、前回に書いております。櫻井では通勤も大変でしょうから、また大阪市内に舞い戻ったと考えられます。
 正確なことは分かりませんが、おそらく昭和に入ってからでしょう。東住吉区田辺本町に、自宅を建てます。終の住まいとして建てたものでしょうが、この家は、地面が借り物でした。これは、当時としてはよくあった形です。ただ、それなりに考えたのだろうなと思うのは、玄関は別になっていますが、構造体としては、2軒の家を一つにしてありました。二世代住宅のはしりとして作ったのか、或いは遺族が家賃収入を暮らしのたすけに出来るように考えたのか・・・実際には、後者として役だっていました。
 祖母の話ですと、オシャレだったそうですが、それがちょっと渋いのですね。着物を作る時、同じものを少なくとも二枚同時に仕立てるのだそうです。一枚を洗いに出しても、もう一枚のほうを着て出かける・・・つまり、他人には「いつでも同じ格好をしている」と思わせるのだそうです。

 享年五十六才は、今だと若すぎますね。

 学柳が死んで3年後、木瓜爺はこの家で生まれました。主屋の方の庭が広くて、大きな石榴の木が庭の中央にあり、井戸の回りには、イチジクの木が二本ありました。と、まあ、実が食べられた木のことはよく覚えています。

 「学柳明圓沙門」の巻はこれで一応終了とします。つれあいは「元柳明美大姉」。学柳の戒名を頂いた時に、同時に頂いた戒名です。本名が「ゲン」で、通称が「美代子」であった祖母です。二つの戒名を一つの位牌に彫ると、「柳明」の一致に美しさを感じます。つけてくださった和尚さん、頭良いなあ・・・