2017年5月16日火曜日

2017/05/16: My Family history 〔3〕 学柳明圓沙門 その2

前回は 家伝(?)による「政之輔」の子供時代のことを書きました。疑問の一つが、中学も中退しなければならなかった彼が、どうして、蔵前に入れたのかという点です。托鉢をさせられていた「明圓」小僧は、頼み込んで「今尾景年」に弟子入りし、「学柳」という画号で、着物の下絵などを描き、生計を立てていました。 木瓜爺が自分自身の性格の一部が学柳のDNAによるものだと意識すると、おそらく学柳は下絵を描きながら、今の言葉でいえば、「標準化による生産性向上」というようなことを考え始めていたのだろうと思います。この辺のところを、資料として残っている「蔵前校友誌(大正15年9月30日発行)」の記述から読み取りたいと思います。写真の文字が小さくて読めないと思いますので、書き写します。

『村岡明圓君 三五選圖 京都十合呉服店意匠部 住所 大阪市天王寺区小宮町四〇

夫人 美代子

長女 登貴子 女流画家

長男 唯矣 天王寺中学在

趣味 写生旅行 謡曲

 君は、明治七年四月 舊金沢藩士田中政一氏次男として京都に生まる。亡父は明治維新の際、急進派に属し、京都に出でて戦ひ、事平らげる後、京都烏丸にて呉服業を営む。

君は幼にして村岡家を襲ぎ、小学校卒業後愛知中学に入りしも家業の都合上半途退学し、芸術を以て身を立てんと欲し、京都今尾景年氏に師事して絵を習い、傍ら西陣織物の下絵を書く。当時の図案は多く画家の手になり、骨描淡彩にして配色の印にすぎず。実物製品には甚だ遠く無責任のもののみなれば、君が之を改良を計りつつありし折柄三〇年四月群馬県桐生の同業者有志に聘せられて織物作製に従事す。これ同地における斯業の矯矢なり。後同地の先覚者森山芳平氏、及び後藤定吉氏に依り故手島先生に紹介せられ、東京高等工業学校工業図案科選科に入る。これ図案選科の初なり。在学中成績優秀にして銀牌の賞を受く。

三十五年四月東京高島屋へ時の皇后陛下の大礼服のご下命ありし際、同店より再三井手教授に逼り来りし為同教授に選抜せられて同店に入る。爾来同店の為に専属工業家の団体高榮会を督して裾模様別染と筒糊を以て色写しを成功せしめる事を唱導し遂に完成せしむ。在勤十一年にして退店し後自営すること五ヶ年、大正六年二月より大阪十合呉服店に入店して意匠部を統括す。同店専属の京都あやめ会を督励して、無線有線並用、恒に図案と製品との味を調和せしむべく努力し毎月一回の研究会を開き製品に対して講評をなす。会員は之を楽しみとして聴くを待つの風あり。同地図案界の一権威たり。尚、君は日清日露の戦役に参加して功あり。(大正十四年)

実務先行で、京都から群馬桐生に移り、図案業?今で云うと図案デザイナーを始め、そこで東京高等工業学校の先生を紹介され、今で云うと研究生的な形で、入学させていただいたのですね。そして、高島屋が昭憲皇太后の大礼服を受注したときに、教授の推薦で高島屋に送り込まれ、見事に仕上げたということです。国分寺の家に澄んでいた時、この時の大礼服を着られた皇后の写真と、頂いた勲章が仏壇の下の引き出しに入れてあって、祖母に話を聞いたことがあります。不思議なのは、この写真と勲章が、私に伝わっていません。 どこに行ってしまったのやら・・・

学柳の業績の一つに、着物につける「家紋」の整理統合があるそうです。家紋を集めた小冊子を作る手助けをし、これが「家紋のバイブル」として印刷発行されたようです。発行者は京都の有名な呉服店の市田さんですね。明治36年の発行になっていますから、高島屋時代でしょうか?





こうしてみると、「爺ちゃん」は偉かったのだなあ・・・と、つくづく感じます。図案家といっても、芸術的な要素以外に、「技術屋」としての合理性・緻密な感覚も優れていたのでしょう。インダストリアル・デザイナーのはしりだったのでしょう。

もう一つの資料、「大阪現代人名辞典」は、次回に。

2017年5月1日月曜日

2017/05/01: My Family history 〔2〕 学柳明圓沙門 その1

三月のはじめに、始祖? 天山禅師大和尚 の事を書いてから、あっという間に2ヶ月過ぎました。今日から書く「学柳明圓沙門」は、我が家の初代になります。戒名に「沙門」とあるのは、嘗て僧籍にあったことを意味して居ます。彼は、天山禅師の養子になり出家しますが、故あって、方向転換。俗世間で生きます。その時、天山禅師が使っていた「村岡」姓を名乗ったと思われます。

我が家系で、世間に知られた功績を残したのは、「此の人」です。以降は尻すぼみ(?)のようです。「此の人」などと他人行儀なことを書いていますが、木瓜爺の祖父に当たります。ただ、木瓜爺がこの世に生まれた時には、すでに他界しておりましたので、写真でしか逢ったことがありません。戒名の「学柳」は画号です。本名は「明圓」。これは、僧籍にあった時の名前だろうと思いますが、戸籍はこれで作られています。それ以前は「幼名」として「政之助」。 ただ、木瓜爺は、「学柳おじいちゃん」と聞かされていましたので、その呼び方が最も馴染んでいます。

「明圓」については、彼が卒業した「蔵前高専」、つまり現在の東京工業大学の前身である学校の「蔵前校友誌」と、「大阪現代人名辞書」に公表された記録があります。また、彼が手がけた作品は、東京藝術大学の美術館に保存されています。

「明圓」の職業は、「図案家」、デザイナーなのです。

これらの文書は、「明圓」が名を成して以降のことであって、幼少の頃については、我が家の言い伝え、メモ書きなどでしか分かりません。通常最も頼りになるはずの、戸籍謄本が謎をはらんでいるという状態なのです。

今回は、まず我が家にある「伝記(?)」をたどり、次回には、前述の二文書の記述をご紹介したいと思います。この「伝記」は、木瓜爺の母が、亡くなる少し前に、いろいろ思い出して書き残してくれたノートに記されていました。誤りと思われる部分も有りますが、とりあえず原文のまま・・・前述の二文書から写したのではないかと思われる記述が多くの部分を占めています。

『村岡学柳の経歴  明治7年4月30日 金沢藩士田中政一の次男として京都烏山高辻に生まる。 父母を早く亡くし、五才の時 村岡天山の養子となり 仏門に入り明圓となる。 小学校卒業後 愛知中学に入学 家事の都合上途中退学し 僧としての修行する。 京都市内を托鉢しながら、今尾景年氏に師事して絵を学び 画号を学柳となる 西陣織物の下絵を描く。 書画を以て身を立てんと志し 東京工業学校 図案専科に入る 研鑽数年 技大いに進む 在学中成績優秀にして 銀牌の賞を受ける。

卒業の後 群馬県に赴き 物産地 図案奨励の為 周く県下を遊歴す。後、愛知県勧業課の招聘に応じ、農商務省 井手技師に随行し 大日本図案協会 商議員審査員となり斯界に其の名を知られる。 各地展覧会博覧会等に作を出し、江湖の称讃を博し 賞牌褒状を受ける事数回。

明治三十五年 東京高島屋呉服店に在る時 宮内省の下命に依り 明治天皇 並びに皇太后陛下の御大礼服考案の光栄に浴せし事あり 

日清日露の戦役に参加

其の後、高島屋本店詰となり 図案部主任として経営に任ずる事十年余 明治四十五年 大正二年一月退店し同店の顧問となり傍ら自営する  大正六年二月より 大阪十合呉服店に入店して意匠部を統括す 昭和六年九月五日 死亡』

 明圓の父は金沢藩士となっていますが、どうも維新の頃、金沢を脱藩して攘夷に騒動に加わった人々の一人だったのではないかと思われます。しかし、本当に「田中政一」であったのかどうか、証拠が見つけれないのです。「父母を早く亡くし」の部分の詳細が全く分からないのです。なお、政一の二男と母は書いていますが、政之助という名前から見て長男だったのではないかと思います。後で出てきますが、入籍した先の扱いが二男なので、書き違えたのではないでしょうか。

昭和六年(1931)に死んだ明圓は享年56才と伝えられています。満年令か数え年かハッキリしませんが、昭和初期のことですから数え年でしょう。そうすると、生まれたのは、明治9年(1876)くらいになりそうです。なんかおかしい? 木瓜爺の父「唯法徹心居士」が、相続の頃に戸籍謄本を取り寄せて、主要事項を書き写したメモが残されています。それには、こう書かれています。『村岡明圓(政之助) 明治四年四月三十日生  明治十六年一月二十日 京都府下京区東松屋町 田中政七 二男入籍 明治二十三年三月二十八日改名』

これが正しいとすれば、死んだのは60才ということになります。 父の写し違いかも知れません。そしてこのメモの重要問題が、明治十六年(1883)田中政七 二男に入籍 という記述。つまり、それまで、政之助には戸籍がなかったことになります。謎です。戸籍法が始まったのは、明治4年頃でしょう。実際に全ての戸籍が整えられたのは数年後だろうと思いますから、宙ぶらりの人がいても不思議ではありませんが、それにしても、明治16年入籍というのは不可解。これは、恐らく中学あたりに入学する為に、戸籍を作る必要を生じ、田中政一の弟、政七に入籍して貰ったのではないでしょうか?

何らかの理由で、父母を殆ど同時に失った幼児を、天山が拾い、育てていたような気がします。そして、小学校に入る時には養子の形をとり、親戚があることが分かって、あらためて、戸籍を作らせた・・・というような、経緯が隠れているように思われます。

「家事の都合上途中退学」というのは、天山が住職をする寺を変わったというような事情がありそうです。明圓は家事として托鉢にまわらされ、それをサボって(?)、画の勉強をしたというようなことを、祖母に聞いた事があります。托鉢にまわった家が画家だったので、ちょくちょく見に行き、弟子にして貰ったのでしょうか?


「学柳」の署名のある画は、手元に何枚か残されています。今、床の間には、端午の節句用の掛軸「兜」が掛かっています。右の絵は、家紋をいれた袱紗に学柳が書いたものです。


師の「今尾景年」は、著名な画家です。『日本画家。京都生。名は永勧、字は子裕、景年は号、別号に聊自楽居。初め浮世絵師梅川東居に師事、のち鈴木百年に四条円山派を学ぶ。花鳥画を得意とし国内外の博覧会で多数受賞するなど高い評価を得た。帝室技芸員・文展審査員・帝国美術院会員。大正13年(1924)歿、80才。 』 と、コトバンクにも出て来ました。 
続きは何時かけるかな?