2017年1月21日土曜日

捨ててこそ(3)

「物を捨てられない族」もいます。 幼いときに、大切にしていた物を大人(多分家族)に捨てられてしまって悲しかったということのトラウマとして、何でも抱え込んでしまうという状態の人も多いそうです。我々年寄り世代では、太平洋戦争から敗戦後の「なにもない生活」の経験から、何でも「また使うことがあるかも知れない」、「捨てるのはもったいない」と、しまいこんでしまうクセが付いています。
 木瓜爺も、使い古したファイルを、「また使う日もあるだろう」と段ボール箱に入れてあるようです。しかし、そのことを忘れて、新しいファイルやホルダーを買ってきてしまうのです。
 先日、そういう段ボール箱を見つけて、処分しようと思いました。ところが、ゴミとして出すには、分解して、紙/金具/プラスチック を別々に出さねばならないということなので、この分解作業が大変・・明日にしよう・・・と、のびのびになり、また忘れてしまいました。
 収入が少ない時代に子育てをしてきた木瓜爺にはよく理解出来ないのは、十分、物を持っているのに、同じ様な物を追加購入する世代があるようですね。ネット通販がそれを助長しているという説もあります。衝動買いを重ねて、置き場がなくなって、新品ゴミ屋敷になるという不思議な世の中だそうです。「物欲」ではなくて、「買う」という行動欲なのでしょうか?・・・捨てる必要があるのは「欲」だというお話は、また次の機会として・・・

 昔頂いた年賀状をかたづけるのに、全部シュレッダーに掛けないといけない(個人情報保護)ということで、これも延期。使っていたシュレッダーが摩耗故障状態になったので、仕方なく新しいのを購入したのですが、『壊れたシュレッダーを「燃えないゴミ」として出せるのは、いつになる?』

 昔は、年賀状とかアルバムの写真とかいうものは、庭の片隅で燃して処分していました。各家庭には、小さな焼却炉があったのですが、ダイオキシンが発生するとかで、強制的に撤去されてしまったのです。焼却が出来なくなってから、家の中にゴミが溜まりだしたように思えます。

 まあ、こういうものは、面倒がらずに、少しずつゴミ収集に出して行けばよいのでしょう。解決策は「実行あるのみ」。

 最近困るなあ、と 思うのは、デジタル遺産 です。早い話が、PCの中の情報。これは、生きている間どんどん溜まって行きます。捨てると生きて行くのに困るものもあります。死んでしまうと、他人には扱えないものも出て来ます。・・・どうすりゃ良いのだ? ・・・また考えます。

2017年1月20日金曜日

ボケのはじまり(1)

「捨ててこそ」 の 方を書かないといけないのですが、今日我が身に起こった現象を書いておくことにしました。多分、これは「徘徊状態」が始まる前兆だと思うのです。
 カメラ屋に、D300をオーバーホール依頼しようと出かけた時の事です。いつもは電車の「下りは最前部」、「上りは最後部」に近い場所に乗るくせがあるのですが、この日は下車駅の改札に近い中央部に乗るべく、ホームの中程のベンチに座りました。
 手元の手帳を眺めていて、ふっと顔を上げたとき、自分が上り側ホームにいるのか、下り側ホームにいるのか、分からなくなってしまったのです。
 分からなくなった最大の理由は、この日「太陽」が出ていなかったのです。普通ですと、意識しなくても日射しのある方向で自分がどちらを向いているか判断しているようです。
 今日のように曇った日は、コンパスを持って外出しないといけないのかなあ・・・
同様の状態は、地下鉄でもおきそうですね。夜道も危険です。 徘徊予備軍としては、留意しましょう。

2017年1月14日土曜日

捨ててこそ(2)

残された「遺物」で、始末の悪い物というと、「趣味」に関するものでしょう。これが、「お宝」と呼べるようなもの、例えば「骨董品」というような価値があるものなら、専門家にたのんで処分ということも出来るでしょうが、そうでないと目をつぶって全部廃棄になってしまうのでしょう。他人に価値が分からないものの一つに、書物があります。
木瓜爺も終活作業の開始に当たって、「趣味に係わる書物」の処分を考えました。木瓜爺の趣味の一つに「将棋」があります。これは、小学生になるころに教わり、高校生くらいから、本格的に書物による自習をし始めています。大きな買い物はしていませんが、それでも500冊くらいの蔵書になっていました。
これは、捨てておかないと遺族が困るだろう・・・中には、今では入手困難な資料もあるし、自分で古書専門店に引き取ってもらうことにしよう・・・と、考えました。ただ、一方でこんな考えも出て来ます。「身体が動かなくなって来た時に、せめて頭の体操をするツールを手元に残して置く方が良いのじゃないかな?」
散々迷ったのですが、兎に角「蔵書リスト」を作りました。購入金額(書物の定価)を計算してみると、思っていたよりも少額でした。これは、昔の本は小さい金額ですから、自然な結果です。次に
実際に売られている古書の価格を調べてみました。それから計算すると、半値とみても、五万円くらいにはなるだろうと思えました。しかし、作ったリストを、専門店に送り込んで見たところ、「最近は、古書も売れません。全部で、一万円程度なら引き取れます」という返事。ただし、送料は、着払いでよいということでした。 仕方がないなあ・・・著者からサインを頂いた記念品的価値のあるものと、傷んでしまって商品価値を著しく減じているものを手元に残し、段ボール箱数個を、送り出しました。 小さな書棚一つが減りました。外のジャンルの書物は、まだまだ残っています。

この例でよく分かったのは、自分の集めた書物などは、自分で考えるほど価値がないものであるということです。本当に価値のある「希少本」などは、インターネット・オークションなどで評価して貰うのも一法かも知れません。

 

2017年1月11日水曜日

捨ててこそ(1)

 年老いた家族が死にますと、残されたものは後片付けが大変です。故人が大切にしていたものが、二束三文にしかならないということもしばしば、リサイクルショップが引き取ってくれないから結局有料のゴミ処分になってしまったという話をよく聞きます。死ぬまでに自分で出来るだけ片づけて逝け、というのが終活の大眼目らしいですね。
しかし、「言うは易く行うは難し」で、木瓜爺の「うろじウロウロ」でも、この問題が暫く取り上げられるでしょう。当分の話題として、「捨ててこそ」を設定してみました。

「逝く」という事になると、どうしても神仏的な話も絡んできます。まず、その面から、木瓜爺自身の心の問題を説明してみます。かなりチャランポランなのですが、木瓜爺は一応「仏教徒」の端っこにおります。仏様の代弁者としての「僧」は、「人間は無に生まれ、死ぬというとで無に帰る」というような事を云います。生まれると云うことは「無」じゃねえだろう・・などと、ひねくれ木瓜爺は納得しないのですが・・・

木瓜爺は、普段「曹洞宗」のお経を読んでいます。土曜日だけ「浄土宗」のお経を読みます。これは、祖父母の代には「浄土系」だったのを、祖父が死んだ時に新しく墓を作る事になり、見つけたお寺が曹洞宗だったために起きた現象なのです。週一日だけは、祖先の為に経を読むことにしているのです。他の日は、今生きている人々の為に、佛のご加護をお願いしているのかも知れません。

共通のお経もありますが、違う部分で云いますと、曹洞宗の場合は「修證義」という明治になってから作られたお経があります。道元の教えを、現代語に近い形で分かりやすく(?)まとめたものと思われます。是などは明らかに、今生きている人間のための経です。このお経のなかで、木瓜爺が心に刻んでいる一節を書いて見ます。
『・・・、無常忽ちに到るときは国王大臣親ぢつ従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり、・・・』
死ぬときは誰にも助けてもらえない、ひとりぽっちだよ、生きているときにやった「善悪や業」だけはついて行くけれど、この世のものは、全て捨てて行きなさい・・・ですねえ。

話を変えます。ブログの題名にした「捨ててこそ」という言葉を考えてみます。
空也や一遍が云った言葉 「捨ててこそ」 を、インターネットで検索すると、何故か「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」 という格言(?)のようなものの解説になってしまいます。
なんとも不思議な現象です。
 この格言めいた言葉は、「命を捨てるつもりになれば、成功するチャンスがあるかもしれない」というような意味でしょう。 空也や一遍の思想とは全く違う次元の話です。

空也上人の場合は、醍醐天皇の皇子という「身分を捨てる」と云うところから始まっています。命ではないのです。一遍上人の場合は、「捨聖」とまで云われるほど捨てまくりましたが、最後は栄養失調で死んでしまいます。浮かぶ瀬を求めたわけではありません。
ここで、このお二人が、いずれも「阿弥陀如来」の信者だったことを思い起こしましょう。言い換えると「他力本願」と言われる宗派なのです。最後は、阿弥陀様にお任せできるから、総てを捨てられるとも云えそうです。 

ということで、木瓜爺は何を捨てて行けるのか、どう捨てればよいのか・・・ぽちぽち考えます。