2017年8月20日日曜日

2017/08/20: My Family History (11) 一修山慧居士(その2 中学生時代)

国民学校を卒業した「チビ」は、新制中学に進みます。卒業間際に、進学についての調査がありました。当時、ある程度の経済レベルを維持していた家庭ででは、海の物とも山の物とも分からない「公立新制中学」を嫌い、「私立中学校」に進学させました。「チビ」は、家の生活が苦しいことはよく分かっていましたから、「国分寺中学でいいよ」と、言い切っていました。多分、唯法徹心居士に「鶏頭牛尾」の話を聞いたのもこの頃だったのでしょう。
 で、前記の調査の時に、「国分寺中学に行くつもりです」と、担任の藤野先生に告げたところ、「そうか、行ってくれるか!」と、えらく感動してくださって、戸惑いました。なぜだったのかよく分かりませんでしたが、このブログを書くときに6年生の成績表を見ると、なんと、2学期3学期学年末と、全学科「優」だったのです。小学校の優等生を新設の公立中学校に送れるということに、何か意味があったのでしょう。この藤野欣三先生、後年国分寺第一小学校の校長になられたとかで、その歓迎のために同窓会を開くという通知が我が家にもあったそうです。所が丁度、木瓜爺が海外勤務の時で、日本におりませんで、お会いできませんでした。残念なことに、倅が、国分寺第一小学校に入学したときには、もう在職されていなかったようです。
国分寺には、所謂「高等小学校」・・「国民学校」時点でいうと「青年学校」でしょうか? ・・しか有りませんでした。それを吸収する形で、国分寺中学が誕生しました。1年生が中学としての入学、2,3年は小学校高等科のスライドです。小学校高等科は義務教育ではありませんから、人数も限られています。1年生だけが、大量に集められた中学です。先生の質も様々。青年学校時代の名残か、直ぐに体罰を与える先生もおりました。
残念ながら、尊敬に値する上級生には巡り会いませんでした。不良グループに直行する危険さえ感じました。それで、逆に同期生の結束のようなものは、割合早く出来ていったように思えます。
最初の一年は、小学校時代の顔見知り友達が、朝寄ってくれて、一緒に通学してしました。子どの足で40分ほど、畑の中の道を歩いて行きます。同年のちょっと不良懸かった子は、幸いに同じ町内でしたから、顔なじみで、いじめられることもありませんでした。「よう!」くらいで、別グループです。
最初は男女組でしたが、隣席の女の子に「きれいな手してるねえ」なんて握られて、どぎまぎしてしまったり・・・女の子はませているのだ・・・なんて思っていました。なんせ、クラスで前から2番目の「チビ」ですから、ペットだと思っていたのかも知れません。あ、思い出した、その子、教頭先生の娘さんでした。気っぷの良い姉御肌でしたねえ。でも、こちらから握ったら、退学!と、言われたかも知れません。懐かしい思い出ですね。
そのうち、「野球」が流行始めます。「六三制 野球ばかりが 上手くなり」などと言われた時代です。新制中学生は勉強が駄目な代わりに野球だけは巧くなった、という意味の冷やかしの川柳です。 流行ったといっても、最初の頃は道具さえ揃いません。器用な子は手作りのグローブで参加。「チビ」は幸いなことに、父親「唯法徹心居士」が米軍基地に勤めていたので、兵役を終えて米国に帰還する兵隊さんから、グローブ、ミットなどを貰って来てくれたものですから、道具所有者として仲間に入れて貰えました。困ったのは、ボールなのです。当時の軟式野球のボールは質が悪くて、すぐ割れてしまうのです。小遣いが溜まると、ボールを買ってくるのですが、手作りバットも混じる中での酷使にすぐパンク。終いには、手作りの硬球・・・少年硬球という市販品も出ましたが、それのイミテーションを作って来た器用な奴がいまして、重宝しました。ゴルフボールを芯にして毛糸を巻き、帆布のような丈夫な皮を着せたものでした。これは、変形しますが割れないので・・・・
体力に劣る「チビ」が、野球少年達の中で、存在感を維持出来たのは、実は「ルールブック」のお陰でした。審判をして下さる先生よりも、はるかにルールに詳しかったのです。試合中に、審判に抗議するのは「チビ」の役割。単純なアウトセーフは抗議しようもありませんが、守備妨害とか打撃妨害とか、ちょっとややこしいことになると、ベンチを飛び出し、やおら尻のポケットからルールブックを取り出して、食い下がります。面白かったです。
二年生になってからでしたが、転校入学の生徒が増えました。大陸から引き揚げてきた家庭や、国分寺に新しく出来た企業の住宅に移ってきた子供達ですが、おしなべて知的レベルが高く、遊んでばかりの「チビ」も少し勉強するようになります。先生も充実してきます。「チビ」は相変わらずチビでしたが、友達が変わって行きました。このころからの親友達10人は、(亡くなった人をのぞいて)今でも付き合っています。其の仲間が慕った上原先生もこの頃来られたのだったでしょう。卒業してからも、毎年正月に先生の家に集まって、遊んでいました。先生が亡くなられるまで続いたのです。通称「上原会」。皆が企業戦士であった頃は、情報交換の場でもありました。不思議な事に同業者がいなかったので、世間を知る良い機会として、勉強させて貰えました。
三年になると、元高等小学校の生徒は全部卒業しましたから、「進学組」「就職組」というクラス作りに変化して行きます。当時、高校への進学率は、まだ35%です。こうしたクラス編成も当然のことだったでしょう。
2年生の終わり頃からだったでしょうか、野球チームを3つ作りまして、リーグ戦などをしました。最初に出来たチームは、中学のチームと云える優秀なプレーヤー群、其の次のレベルのチーム、そして、好きだけどあまり上手くない第3のチーム。この第3チームの監督が「チビ」です。
第三のチームは、実力的にはとても勝てません。何とか引き分けくらいには持ち込みたい・・・・実際に何敗したのか覚えていませんが、念願の引き分けは一回記録できました。日暮れが迫った時、変化球投手を起用して、逃げ切った?のでした。このリーグ戦を中心にした「学球新聞」が発行されました。主筆が「チビ」。こういうの好きだったのですね。それで、後に、技術系の大学に進むというと、驚いたと云った人がいます。その方は、新聞など作っていたから、文化系に進むと思っていたそうです。
たいして目だたなかった「チビ」が、突然有名になったのが、高校進学のための「アチーブメント・テスト」でした。此のテストは、中学生の学力テストですが、東京都ではこの年が最初だったのか? 兎に角、この点と内申書で、公立高校の入否が決まると言われました。
受験場は府中でしたが、詳しい記憶がありません。
「チビ」の成績は、国語96、社会92,理科85、数学97 合計370。
当時、父が中学校の説明会で聞いたらしい各高校の安全ラインの記録がありました。立川280、国立260、小金井240、五商240、二商240。どこでも大丈夫だと言われたようです。
このこと自体は、たいした事ではないのですが、国分寺中学からの受験者の平均点は、多摩地域に3年前に作られた新制中学のトップだったのだそうです。個人ランキングで、「チビ」は、同地域の第3位だったといいます。突如「天才」の仲間入りをしてしまいました。そんなことから、中学校から頂いた表彰状が「善行賞」。この賞状が面白いのです。「右者頭書のの善行につき本校行賞規定に依り之を表彰する」。肝心の頭書は空欄なのです。どうやら、国分寺中学の名前を世間に知らせたという善行だったようです。
この国分寺中学の平均点アップに寄与したのが、先ほど書いた「上原先生」の「社会科」補修講義でした。「ヤマがあたった」という状態が発生したのです。試験の前日だったか前々日だったか、下校しようとしている時に、「すぐ教室にもどれ、教えるのを忘れていたことがある」と、呼び返され、ふくれっ面で聞いた部分が、出題されたのです。試験場で問題をみて、思わず顔見合わせてニヤリだったのでした。恐らく全員10点近く稼いだでしょう。
 このアチーブメントテストで、好成績を得た「チビ」、こういうテストに結構自信を持ったのかも知れません。3年後にも奇跡(?)を起こしてしまうのです。

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