2017年7月25日火曜日

2017/07/25: My Family History(9) 一法開心大姉

「唯法徹心居士」の妻、「一法開心大姉」は、木瓜爺の母です。
出家から還俗して始まった「村岡家」とは違って、先祖代々の系図がある「高山家」の分家に産まれています。「一法開心大姉」の兄にあたる方から頂いた「略系図」によると、「元寇」の時に、名を挙げた四国の水軍、「河野通有」の孫 通直が、「高山(こうやま)家」の初代だそうで、十一代目の高山萬助通永の弟「高山久五郎道廣」が分家したようです。この道廣の次男「端午」という人が、木瓜爺の母方祖父にあたります。「端午」の兄の娘が、外交官の「都倉栄二」氏に嫁入りし、その子供が「****」氏なのだと聞いてびっくりしました。有名人が親戚だったのです。

 この母は大正四年七月二十九日の誕生ですが、当時の戸籍では、「高山久五郎」を前戸主とした戸籍(愛媛県周桑郡福岡村大字丹原、)に記入されており、そこでは「光子」と記載されています。ところが、次の「高山端午」を戸主とした戸籍(愛媛県周桑郡丹原町)では、「光」の一文字になってしまっているのです。当時は、全て手書きの書き写しですから、こうした誤りというのは、やたらにあったようです。
このあと、「高山端午」は、兵庫県武庫郡西宮市に移っています。詳しい事は知りませんが、回船問屋つまり船を使った運送業を営んでいて、たいそう羽振りも良かったようです。「光(てる)」は、お嬢様として育ちました。ところが、鉄道の発達によって、状況が変わります。船自体も、大型船に変わっていったでしょう。回船問屋としては、閉店の憂き目を見ることになりました。「光」は女学校中退で働くようになります。
その職場の上司として、「唯法徹心居士」に巡り会ったのですが、入籍の時期からみますと、今で云う「出来ちゃった結婚」のようです。なにしろ、三ヶ月後に、木瓜爺が誕生してしまっています。
 木瓜爺が生まれた時、「唯法徹心居士」はあまり喜ばなかったといいます。其の理由は、木瓜爺の左足が異常だったのです。右足に比べて、細くてしかも痣のように血管が浮いて見えたからです。奇形児ではないかと思ったのでしょう。こういう子供が生まれた理由は、「帯を強く締めすぎていたからなんだよ」と、母は説明していましたが、何故、帯を強く締めなければならなかったのかという点については説明しませんでした。木瓜爺がそれを理解したのは、この戸籍簿を見たときです。つまり、職場で、妊娠していることを隠したかったのでしょう。木瓜爺の左足のハンデは、ずっと続きました。小学校に入った頃から、殆ど半ズボンを穿いていません。今でも、左足の膝には、紫色の帯? 血管が目だちます。特に寒い季節には、まるで内出血しているように見えます。見た人に不快感を与えるだろうと、プールで泳ぐとき以外はずっと隠していました。
  本題に戻って、大阪在住時代の「一法開心大姉」は、「唯法徹心居士」の中国単身赴任の時期を挟んで、木瓜爺を育てます。姑と小姑のいじめ?に苦労したでしょう。
 木瓜爺の弟(「良仁瓔児」)を死なせたことも悲しい出来事でした。幸いにそのあと、妹が生まれました。妹は木瓜爺の5才下になります。「一法開心大姉」の晩年、この妹がずっと面倒を見てくれました。木瓜爺は、資金調達だけです。
 東京の戦後の生活では、「一法開心大姉」が一家の金主になります。山野美容学校に通って「美容師」の資格をとり、最初は住み込みの美容師、後には三鷹で自分の店を開きます。この店が、小規模ながらほぼ順調に経営できたおかげで、木瓜爺は大学にも行けました。
思い起こすと、パーマネントの世界にも、技術革新がありました。最初は「電髪」などと言われる、髪をカールさせるロット(軸だと思ってください)に巻き付け、電気のヒーターで乾かすという方法でしたが、やがて「コールドパーマ」という方法に代わります。これは、特殊な液体を使って、ロットを巻き、温風で乾かしてゆく方法です。この特殊な液体が、美容師の指を侵食?するのです。湿疹を起こすのですね。「一法開心大姉」は、この湿疹に悩まされました。手伝っていた妹も体質的には当然似ていますから、同じ悩みにつきまとわれます。だんだん改良はされてゆきましたが、一時は見ていられない惨状でした。そんな手を客には見せられませんから、ゴム手袋をはめていますが、手袋の中は高温多湿、良くなるわけがありません。
 「唯法徹心居士」が、還暦で旅だってしまうと、「一法開心大姉」も相当ショックを受けたと思いますが、木瓜爺の子供達つまり孫達と遊ぶのが一つの楽しみになり、休みの日には、孫達を連れて遊びに出かけてくれました。しかし、是が木瓜爺夫婦にとっては一つの困ったことになります。丁度、木瓜爺は、単身赴任で香港に行っており、家内が子供達を抱えて苦労していたわけですが、休みの日に、知らない間に孫をつれて出てしまうというような事が起こったようです。多分、情報交換不足だったのでしょう。そして、遊びすぎた孫達が、翌日熱を出して医者通い、という悪循環のサイクルに飛び込んでしまいます。
このままでは、子供を殺されるなどと、家内も精神的に参ってきて、別に暮らそうという発展に成って行きます。いろいろ重なって、木瓜爺一家四人は羽村に移ります。
そのあと、妹の結婚話がまとまり、店を閉じて、「一法開心大姉」は、国分寺の自分で立てた家に一人暮らしの形になります。一人だけでは、心配もありますので、家内の弟一家に、木瓜爺が住んでいた部分で暮らして貰うようになりました。
この時期、「一法開心大姉」は、借りていた店の大家さんと、観音霊場巡りなどをしていたようです。秩父霊場を繞った御朱印帳などが残されており、後に木瓜爺の秩父フォトウォークへとつながって行きます。
ただ、これらの交友関係がもたらした負の遺産も残されました。株で儲けた僅かばかりの金を例の「原野商法」に引っかかって、始末できない土地を買ってしまったのです。この負の遺産、木瓜爺も妹も悩みの種になっています。母としては、子供に土地をプレゼントしてくれたつもりなのですが、処分出来ないのです。市町村に寄附しようとしても、そんな使えない土地はいらんと云われてしまいます。これを種に、更に詐欺行為を働く連中もいるとか(処分してやるから金を出せというタイプ)聞きます。努力していますが、此のぶんでは、孫の代まで負の遺産として残りそうです。
「一法開心大姉」が、六十になり、年金を少々頂けるようになった時、80以上まで生きられるなら、直ぐに貰わずに五年後から貰うようにした方が得だよ、と説明したのですが、そんなには生きられると思えないから、直ぐ頂くと云いました。これは、誤判断でした。九十四まで生きたのですから、かなり損したようです。
そのあとすぐ、国分寺の家を建てていた土地が、再開発されることになり、自分の土地ではありませんが、二十五年以上住んでいましたから、地上権を補償金として支払って貰えることになりました。交渉には木瓜爺が当たりましたが、借財を残して死んだ「唯法徹心居士」の遺産が「地上権」としての蓄財だったのです。この臨時収入のお陰で、「一法開心大姉」の新しい家を八王子に求めることが出来ました。同じ土地の一部を使っていた「唯法徹心居士」の弟も、川越にマンションを買って移ることが出来ました。住んでもらっていた義弟にも、通常の立ち退き料の数倍の金を渡して、引越をさせました。
「一法開心大姉」の新居を八王子にしたのは、妹の嫁入り先が八王子であり、面倒を見て貰うのに都合が良いからでした。同居という事態も考えて、妹も自分の取り分から、購入費を分担しました。木瓜爺は、この家に関しては相続しないからということで、購入資金は出さないことにしました。実際には、生活資金のほうで援助はしていますが・・
こうして、七十二才で、「一法開心大姉」の新生活が始まりました。引っ越した頃は、散歩などもよくしていました。娘の方の孫達を育てる手伝いも楽しかったようです。八十八才の米寿の祝いをした頃は、まだ杖を使って歩いていましたが、歩く事がだんだんできなくなると、急速に衰えてきます。
一法開心大姉1 九十を過ぎて、入院を要する病も発生するようになりました。体調を崩して、そろそろお別れかと「ひ孫」をつれて行くと、ひ孫に元気をもらって、回復するということもしばしばありました。しかし、木瓜爺も七十を過ぎて年金だけの生活になったので、仕送り額も段々減少。生活基盤も縮小せざるを得なくなり、木瓜爺が、もう仕送りが困難になったよ、母さん自分の年金と預金で暮らせるかい・・・と、云ったら、直ぐに亡くなってしまいました。年末に入院し、正月にひ孫が見舞いに来てくれたのですが、生憎と「子供」は面会謝絶(インフルエンザなどの予防)といわれ逢えませんでした。もし、逢えていたら、ひ孫パワーで、もう少し生き延びたかもしれません。
 「唯法徹心居士」に「後を頼むよ」と言われた木瓜爺、たのまれたことを、やり終えたのでしょうか? 「一法開心大姉」は、遺産と云うほどではありませんが、墓を作る費用は、きっちり残してくれていましたから、それを使って、八王子の浄泉寺に新墓を作り、大阪の菩提寺から「学柳明圓沙門」「元柳明美大姉」「芳桂院小丘大姉」「唯法徹心居士」「良仁瓔児」を引越させて、一緒に葬りました。この墓は、Familyの墓なのです。
 「一法開心大姉」という戒名は、「唯法徹心居士」の名を頂いた時に、同時に頂いた戒名なのですが、なぜ、「光法開心大姉」にしなかったのか、疑問です。考えられるのは、「光」という字が、子供の戒名に使われる文字らしいので、避けたのかなと想像しました。墓石には「光陰」という文字を彫りました。「命は光陰に移されて、暫くも停め難し」という修證義の経文の語に、「光」の名は、隠れているのだよ・・という意味を含めています。

2017年7月22日土曜日

2017/07/22: My Family Story (8)  唯法徹心居士 その3

二代目「唯法徹心居士」が、三代目となるであろう若き日の「一修山慧居士」の進学や就職のときに、繰り返し云った言葉があります。
正しくは「寧為鶏口 無為牛後」 史記の蘇秦傳に出てくる言葉ですが、日本流の格言としては「鶏頭牛尾」と云われています。「鶏頭となるも、牛尾となるなかれ」です。

こういった裏には、自らの信念があり、それを継いでほしかったのでしょう。「一修山慧居士」が社会人となり、その妹も母の「一法開心大姉」が開いた美容院を助けて働くようになると、「唯法徹心居士」は、自分の夢に挑戦する気になります。規模は小さくても、自分の思い通りに仕事をしたいという夢です。それは、意外とも思われる分野でした。
 幼児の為の遊具作りなのです。当時幼稚園や保育園の必要性が高まっていましたから、着眼点としては悪くなかったようです。
 学歴としては文化系ですが、趣味的には、結構科学系にも詳しく、写真では、ガラス乾板に感光乳剤を塗って、フィルムに相当するものを作って使ったり、現像薬を自分で調合し使っていました。引き伸ばしも自宅でやっており、木瓜爺は見て覚えました。
 戦時中に自宅で使っていた「高一のラジオ」(当時のラジオは真空管式ですが、4本の真空管が使われていたので、並四 と呼ばれており、もう一本真空管を増やして高周波増幅を付けた感度のよいのが 高一 だったのです)は、自作の物でした。戦争の末期から戦後にかけては、子供の木瓜爺こと「一修山慧居士」に、変圧器を作らせたり、電動機を作らせたり・・・そういう材料をどこからか見付けて来ては、参考書と共に子供に与えていたのです。
残念なことに、純技術的には力不足で、ちょっと巻き線が細すぎ、完成した変圧器を使ったら、熱を持って煙が出て来て、大慌てになりました。危険でしたが、面白かったです。木瓜爺つまり「一修山慧居士」が、大学に入るとき電気科を選んだのは、こういう子供の頃の工作体験があったからでしょう。
話を戻しまして、「唯法徹心居士」の作った遊具というのは、例えば、幼児が2m程離れて向かい合って腰掛け、足元のペタルをこぐと、メリーゴーランドのように回り出すというようなものです。安全性などに工夫の余地は有りましたが、電気のような動力を使わず、子供自身の力で動きを造り出して遊ぶものが多かったように思います。
いくつかの特許をとって、数人の職人さん達との会社を作り、商品化し、全国の幼稚園などを回って売り込みました。遊具などのない新設の幼稚園や保育園では、当然欲しがります。納品まではほぼ順調にいったのです。ところが・・・金を払ってくれないのです。これらの幼稚園や保育園は、市などの助成金が頼り、助成金がでたら払います・・・で、引き延ばすわけです。全国販売をしたものですから、集金に行く費用だけでも大変、行っても払ってくれない・・・忽ち、資金繰りがショート。あえなく、倒産です。
「唯法徹心居士」の夢は、数百万の負債を残して消えました。残念だったろうと思います。残された人生は、サラリーマンに戻り、この負債を消すことに使われましたが、利子支払いが精一杯、最初に借りた元金の部分は「唯法徹心居士」の死後、「一法開心大姉」と「一修山慧居士」で、返済処理をしました。
この二代目の失敗を見て、三代目「一修山慧居士」は、鶏口となるのは、技術だけでは駄目だ、経営学、経済的知識、人間などの総合的な理解力が必要なのだと知り、自らの方向転換を図ります。
「唯法徹心居士」が「お爺ちゃん」になって2年目、還暦の祝いに、「一法開心大姉」と夫婦旅行をしていらっしゃいと、子供二人が、周遊券と宿泊券を用意して、伊豆の旅行に送り出しました。これは嬉しかったようで、戻ってから、旅の様々の夫婦げんかを披露してくれていました。ところが、春の初め、夜になるとひどい咳をするので、老人性結核だと、孫に移してしまうと大変だと受診することを奨めたところ、本人は武蔵境にある日赤結核病棟で検査を受けます。この選択が、彼の最後の不運だったのです。肺癌だと思わなかったのは、前年に肺癌で死んだ「芳桂院小丘大姉」の場合と、出現している症状が全く異なっていた為でした。
日赤で撮した胸部レントゲン写真を借りてきた事がありますが、別の病院のベテラン医師は、一目見て、「これは肺癌だよ、この大きさなら手術で取れるかもしれない」・・・しかし、日赤の結核専門医は、入院させてパスか何かを飲ませていたのです。この間約一ヶ月。ピンポン球より小さかった癌組織は、こぶし大に育ってしまいました。これは、結核非ずと、がんセンターで再検査し、肺癌と言われましたが、ベッドがなくて収容出来ないというので、別の病院を見つけ、転院させたのですが、特すでに遅しでした。そういえば、この手術の時、輸血する血を、木瓜爺の勤務していた会社の方がたに献血していただいて助かりました。十分なお礼も言えず、そのままになっていたことを、今頃思い出しました。本当にありがとうございました。
手術直後、摘出した肺の患部を指でおして、正常部分との堅さの違いを知りました。このとき、ずばっと聞きました。「あと、何ヶ月ですか?」 つられた医師が「三ヶ月です」、すぐ慌てて打ち消しましたが、覚悟しました。
手術後に、段ボールの切れ端に本人が書き残した句がありました。
「肺ひとつ、捨てたる秋の 夜長かな」 悲しい句です。 
一時は退院出来るかなと思った程度の回復に見えたのですが、十一月の終わりに、腹部にもっこり腫瘍が現れました。転移再発でした。亡くなる一週間ほど前、まだ、33才だった木瓜爺の手を握り、「あとをたのむよ」と言い残しました。これから、少しのびのび遊んで貰おうと思っていたのに、早すぎる旅立ちでした。
「あとをたのむよ」と云った責任上、母が亡くなるまで、ずっと木瓜爺の健康を守っていてくれたようです。節煙はしたけれど禁煙まで行かない木瓜爺が、肺癌だといわれずに済んでいたのですから・・・
次回は、、「一法開心大姉」の方を、さらっと書きます。






2017年7月12日水曜日

2017/07/12 My Family history 〔7〕 唯法徹心居士 その2

「大東亜戦争」と呼ばれた戦争が始まる少し前に、任期を終えて中国から戻ってきた父は、家族サービスにも精を出してくれたようです。夏に、六甲山の別荘を借りて、避暑に連れて行ってくれたり、奈良の若草山で遊んだり、幾つもの思い出が重なってきます。大和川に釣に連れて行ってくれたこともありました。
 唯法徹心居士は、趣味もいろいろあったようですが、その中で、釣と写真が双璧だったようです。写真に関しては、木瓜爺がブログに取り上げたような、Auto Grafrex など何台かを所有しており、アサヒカメラに投稿して、何回か賞を頂いたようで、入賞のバッヂなどが残っています。釣の方は、竿を何本も持っており、休みの日に座敷で手入れをしていたことを記憶しています。

写真の方は、木瓜爺に遺伝(?)しましたが、魚釣りのほうは、全然駄目でした。平和な生活が乱されたのは、開戦です。その前から、愛する中国を侵略する日本軍に心を痛めていたようですが、米英との開戦で、より切実な不安が唯法徹心居士を捉えました。まだ、三十代の半ばでしたから、「招集令状」が来るかも知れないという不安です。たまたまなのですが、外国語専門紋学校当時の学友が、東京で「工場」を継ぐことになり、手伝ってくれないかという誘いがあったようです。其の工場は、飛行機の部品を作る工場でした。唯法徹心居士はこの誘いに乗ります。武器の製造と云う部分では若干の抵抗はあったようですが、「軍需工場」に務めるということは、「招集」が直ぐには来ないという思惑が働いたのでしょう。
かくて、木瓜爺一家は、「大阪」より危険と言われた「東京」に、引っ越すことになりました。年末でした。父と私が先発。夜行列車で東京に出て来ました。数日後、母と妹がやってきました。最初は、中野区新井薬師に借家しました。東京の冬は寒く、木瓜爺は気管支炎を起こして、何日も学校を休んでしまい、新井小学校の事は殆ど記憶にありません。木瓜爺の気管支炎に続いて、妹がジフテリアで入院。東京の生活は、苦難の道で始まりました。
中野というのは便利な場所ですが、東京空襲が起きるとささやかれていました。もう少し田舎のほうが安全だろうと、唯法徹心居士は、工場があった「国分寺」に空き屋を探します。そして、見つけたのが、近々郷里に四国に疎開するから、この借家を譲ってもよいという方。荷物を四国に送り出して一部屋使えるようにして下さり、大家さんの了解を得て、四畳半に親子4人で暮らすことになりました。台所も、便所も共有ですから、大変でした。しかし、何日もかからず、四国に引き上げられましたので、全体を使えるようになりました。この家が、国分寺の本多新田にあったのです。
引っ越した翌年、東京大空襲で、中野で住んだ家は焼けてしまいました。この直前でしたが、牛込に住んでいた母の実家が、国分寺に疎開したいと云いだし、借りていた家を引き渡して、一家は社宅に移ります。この社宅はなかなか良かったのですが、経営者の親戚が疎開してくるということで、またまた追い出され、すぐ前にあった寄宿舎に移って、管理人を兼ねることになりました。大阪に残っていた祖母と伯母も上京してきてここに住みます。唯法徹心居士の弟は、学徒動員から、招集と続いて、習志野の基地に勤務するようになっていました。本土決戦に備えて、対戦車の迫撃砲の練習をしていたようです。戦争は、玉砕が続くようになってきていました。「寄宿舎」に入っていた若い工員さんは、すでに招集されてしまい、二世帯ほどが残っていただけでした。木瓜爺の立場でいえば、部屋が沢山有って遊ぶのに都合が良い・・でしたが。「終戦の詔」を聞いたのはこの「寄宿舎」の庭でした。
「唯法徹心居士」は、工場長でしたから、これからまた一苦労も二苦労もすることになります。工場は無論閉鎖。収入0です。細かいことは分かりませんが、何人かの人と、工場に残っていたアルミ材などを内緒で使用し、ライターなどを作って換金したりしていたようです。工場の庭にあった「矢場」を、開墾して、野菜やいもなどを作って分けたりもしていました。
立川に米軍基地が開設されると、英語が話せる唯法徹心居士は、警備の仕事にありつけました。これは、駐留米軍の縮小まで続きます。しかし、それだけでは一家が暮らす費用には不足しますので、後に「一法開心大姉」となった母は、美容師の資格をとり、住み込みで働くようになりました。復員した叔父も、民間の会社に勤務しました。
終戦時に五年生であった木瓜爺も、昭和22年、新制中学に通い始めます。暮らしは楽ではありませんでしたが、それなりに、落ち着いた日常が戻り始めました。しかし、住まいの方は、また明け渡しに迫られます。
裁判などで、粘りながら、唯法徹心居士、一法開心大姉の夫婦は、借家でない自分たちの家を建てようと決心するのです。昭和25年、住宅金融公庫が発足しました。この制度を利用して、昭和26年、国分寺駅の直ぐ近くに、25坪(当時の公庫の融資基準はこの程度の大きさまでだった)の家を建てました。土地は買えないので、借地です。
木瓜爺とその妹が中学を卒業するまでに、唯法徹心居士は、PTAの役員を二回やっています。最初の時は、木瓜爺の卒業の時に「感謝状」を頂いていますから、新制中学を整備するお手伝いをしたのでしょう。妹の時は、修学旅行に行けない貧困家庭の子供達も参加させたいと、農家や造園業を営む父兄に働きかけて、植木の苗木を寄附していただき、中学校の校庭を使って、植木市バザールを開催し、売上を、その子供達の旅費にあてて、感謝されたと聞いています。
招集令状から逃れる為に、軍需工場路線に乗り換えた判断が正しかったのかどうか分かりませんが、一度だけ、ちょっと淋しそうな顔を見せたことがあります。若い時に務めていた高島屋が横浜に開店した頃だったか、新聞を見ていて、彼が取締役になったのだなあ・・・と、つぶやいていました。そして、木瓜爺が、仕事で悩み、いっそ止めてしまおうかと思ったとき、「じっと我慢して時を待つのも選択肢の一つだよ」と教えてくれたことがありました。
このあと、唯法徹心居士は、暖めていた夢に挑みます。