2017年7月12日水曜日

2017/07/12 My Family history 〔7〕 唯法徹心居士 その2

「大東亜戦争」と呼ばれた戦争が始まる少し前に、任期を終えて中国から戻ってきた父は、家族サービスにも精を出してくれたようです。夏に、六甲山の別荘を借りて、避暑に連れて行ってくれたり、奈良の若草山で遊んだり、幾つもの思い出が重なってきます。大和川に釣に連れて行ってくれたこともありました。
 唯法徹心居士は、趣味もいろいろあったようですが、その中で、釣と写真が双璧だったようです。写真に関しては、木瓜爺がブログに取り上げたような、Auto Grafrex など何台かを所有しており、アサヒカメラに投稿して、何回か賞を頂いたようで、入賞のバッヂなどが残っています。釣の方は、竿を何本も持っており、休みの日に座敷で手入れをしていたことを記憶しています。

写真の方は、木瓜爺に遺伝(?)しましたが、魚釣りのほうは、全然駄目でした。平和な生活が乱されたのは、開戦です。その前から、愛する中国を侵略する日本軍に心を痛めていたようですが、米英との開戦で、より切実な不安が唯法徹心居士を捉えました。まだ、三十代の半ばでしたから、「招集令状」が来るかも知れないという不安です。たまたまなのですが、外国語専門紋学校当時の学友が、東京で「工場」を継ぐことになり、手伝ってくれないかという誘いがあったようです。其の工場は、飛行機の部品を作る工場でした。唯法徹心居士はこの誘いに乗ります。武器の製造と云う部分では若干の抵抗はあったようですが、「軍需工場」に務めるということは、「招集」が直ぐには来ないという思惑が働いたのでしょう。
かくて、木瓜爺一家は、「大阪」より危険と言われた「東京」に、引っ越すことになりました。年末でした。父と私が先発。夜行列車で東京に出て来ました。数日後、母と妹がやってきました。最初は、中野区新井薬師に借家しました。東京の冬は寒く、木瓜爺は気管支炎を起こして、何日も学校を休んでしまい、新井小学校の事は殆ど記憶にありません。木瓜爺の気管支炎に続いて、妹がジフテリアで入院。東京の生活は、苦難の道で始まりました。
中野というのは便利な場所ですが、東京空襲が起きるとささやかれていました。もう少し田舎のほうが安全だろうと、唯法徹心居士は、工場があった「国分寺」に空き屋を探します。そして、見つけたのが、近々郷里に四国に疎開するから、この借家を譲ってもよいという方。荷物を四国に送り出して一部屋使えるようにして下さり、大家さんの了解を得て、四畳半に親子4人で暮らすことになりました。台所も、便所も共有ですから、大変でした。しかし、何日もかからず、四国に引き上げられましたので、全体を使えるようになりました。この家が、国分寺の本多新田にあったのです。
引っ越した翌年、東京大空襲で、中野で住んだ家は焼けてしまいました。この直前でしたが、牛込に住んでいた母の実家が、国分寺に疎開したいと云いだし、借りていた家を引き渡して、一家は社宅に移ります。この社宅はなかなか良かったのですが、経営者の親戚が疎開してくるということで、またまた追い出され、すぐ前にあった寄宿舎に移って、管理人を兼ねることになりました。大阪に残っていた祖母と伯母も上京してきてここに住みます。唯法徹心居士の弟は、学徒動員から、招集と続いて、習志野の基地に勤務するようになっていました。本土決戦に備えて、対戦車の迫撃砲の練習をしていたようです。戦争は、玉砕が続くようになってきていました。「寄宿舎」に入っていた若い工員さんは、すでに招集されてしまい、二世帯ほどが残っていただけでした。木瓜爺の立場でいえば、部屋が沢山有って遊ぶのに都合が良い・・でしたが。「終戦の詔」を聞いたのはこの「寄宿舎」の庭でした。
「唯法徹心居士」は、工場長でしたから、これからまた一苦労も二苦労もすることになります。工場は無論閉鎖。収入0です。細かいことは分かりませんが、何人かの人と、工場に残っていたアルミ材などを内緒で使用し、ライターなどを作って換金したりしていたようです。工場の庭にあった「矢場」を、開墾して、野菜やいもなどを作って分けたりもしていました。
立川に米軍基地が開設されると、英語が話せる唯法徹心居士は、警備の仕事にありつけました。これは、駐留米軍の縮小まで続きます。しかし、それだけでは一家が暮らす費用には不足しますので、後に「一法開心大姉」となった母は、美容師の資格をとり、住み込みで働くようになりました。復員した叔父も、民間の会社に勤務しました。
終戦時に五年生であった木瓜爺も、昭和22年、新制中学に通い始めます。暮らしは楽ではありませんでしたが、それなりに、落ち着いた日常が戻り始めました。しかし、住まいの方は、また明け渡しに迫られます。
裁判などで、粘りながら、唯法徹心居士、一法開心大姉の夫婦は、借家でない自分たちの家を建てようと決心するのです。昭和25年、住宅金融公庫が発足しました。この制度を利用して、昭和26年、国分寺駅の直ぐ近くに、25坪(当時の公庫の融資基準はこの程度の大きさまでだった)の家を建てました。土地は買えないので、借地です。
木瓜爺とその妹が中学を卒業するまでに、唯法徹心居士は、PTAの役員を二回やっています。最初の時は、木瓜爺の卒業の時に「感謝状」を頂いていますから、新制中学を整備するお手伝いをしたのでしょう。妹の時は、修学旅行に行けない貧困家庭の子供達も参加させたいと、農家や造園業を営む父兄に働きかけて、植木の苗木を寄附していただき、中学校の校庭を使って、植木市バザールを開催し、売上を、その子供達の旅費にあてて、感謝されたと聞いています。
招集令状から逃れる為に、軍需工場路線に乗り換えた判断が正しかったのかどうか分かりませんが、一度だけ、ちょっと淋しそうな顔を見せたことがあります。若い時に務めていた高島屋が横浜に開店した頃だったか、新聞を見ていて、彼が取締役になったのだなあ・・・と、つぶやいていました。そして、木瓜爺が、仕事で悩み、いっそ止めてしまおうかと思ったとき、「じっと我慢して時を待つのも選択肢の一つだよ」と教えてくれたことがありました。
このあと、唯法徹心居士は、暖めていた夢に挑みます。









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