2017年2月11日土曜日

捨ててこそ(5): APS-C デジ1眼

書棚を整理していた妻が、「これ捨てても良い?」と「ことわざ格言集」を持って来ました。探しても見つからなかった本です。いつの間にか、置いた書棚が別の場所になっていたのでした。なぜ、それを探していたかというと、「空也上人」の、「捨ててこそ」について書かれていた筈だからでした。早速調べて分かったのは、「空也上人の和歌」が、あやしげな格言の元兇であるということでした。それは、『山川の末に流るる橡殻(とちがら)も 身をすててこそ 浮かぶ瀬もあれ』 です。これは、武道の「死中に活を得る」という言葉と同じ意味で言ったということになっているようです。
 しかし、以前に、こんな記事を見ました。「一遍上人」の研究をされている方のブログですが、『一遍上人語録』の現代語訳だそうです。こちらの、「捨ててこそ」の方が、本物(?)なのでしょう。

 『むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかが申(もうす)べきやと問ければ、「捨(すて)てこそ」とばかりにて、なにとも仰(おおせ)られずと、西行法師の撰集抄に載(のせ)られたり。是誠に金言なり。
 念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨(すて)、善悪の境界をもすて、貴賎高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟をもすて、一切の事をすてて申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤(もっとも)かなひ候へ。かやうに打あげ打あげ(注:高く高く)となふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界、皆浄土なり。外に求(もとむ)べからず、厭(いとう)べからず。
 よろづ生(いき)としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預(あずかる)にあらず。またかくのごとく愚老が申事も意得(こころえ)にくく候はば、意得にくきにまかせて愚老が申事をも打捨(うちすて)、何ともかともあてがひはからずして、本願に任(まかせ)て念仏したまふべし。
 念仏は安心して申も、安心せずして申も、他力超世の本願にたがふ事なし。弥陀の本願に欠(かけ)たる事もなく、あまれることもなし。此外にさのみ何事をか用心して申べき。ただ愚なる者の心に立かへりて念仏したまふべし。南無阿弥陀仏』
木瓜爺が思った通り、他力本願なればこその「捨ててこそ」ですねえ。「阿弥陀仏」を信じない限り、すべてを捨てることなど無理です。一遍上人には、残される家族もありません。もともと、出家という形で家族を捨ててしまっているのです。
凡人には無理だと分かれば、「捨てるものもあれば、残すものもある」と、割り切りましょう。どうせ、死ぬときは、なにもかもこの世に捨てて行くのです。ただ、残すものというのは、遺族の負担になると思うので、出来るだけ少なくしておきましょう。
木瓜爺の趣味、いろいろ有ったのですが、捨ててしまったものもあります。捨てざるを得なかったと云うべきかな? 若い頃は、履歴書に格好良く「趣味 音楽鑑賞」などと書いて、クラシックは少なかったのですが、ジャズ、ポピュラー・ソング、ウエスタンなどを楽しんでいました。だいたい其の頃は、音に関する仕事でしたから、耳を酷使していました。ところが、ある帯域の音が聞こえなくなってしまうというタイプの「職業性難聴」になったのです。それまでの仕事が出来なくなり、耳による評価ではなく、視覚化・数値化された状態で考える仕事に移って行きます。
そこまではまだ良かったのですが、ある年の冬、風邪を引いて、高熱を出し、抗生物質の薬を飲みながら何日か寝て過ごしました。 それがなおった日に、起き上がって、久しぶりにステレオを聞こうとしたら、片方のチャンネルが音が出ない・・・スピーカーが壊れたのかと思ったら、なんと、耳の方が壊れていたのです。耳鼻科に治療に通いましたが、突発性難聴ということで、回復の兆しもなく、右の耳が殆ど聞こえなくなりました。そうなってしまうと、もう音楽を聴く気にもなりません。「趣味 音楽鑑賞」などと書けなくなってしまいました。オーディオの装置も、殆ど捨てました。現在残っているのは、レコード・CD・カセット何でも聞ける小さなマルチ・プレーヤー1台です。「般若心経」のテープなどが演奏?されることがあります。
次は「趣味 写真」のほうの話です。 つい先頃なのですが、長いこと使っていたNIKONのD300というカメラが故障してしまったのです。修理して使うつもりでいたのですが、NIKON では、販売終了後7年は部品を保存しているけれど、それ以降は保証出来ないのだそうです。試しに、修理依頼をしてみたのですが、診断はしてくれたらしく、「**基板が不具合」ですが、部品がないため修理不能です と戻って来ました。修理の手段としては、独立したカメラ修理工場に依頼するという方法が残されています。こういう工場では、廃棄状態になったカメラを分解して、修理用の部品をストックしたり、自作できるバーツは同じようなものを工作機械を使って作ったりして、可能な限り対応してくれます。ですから、問い合わせてみる意味は残っています。
しかし、あっさり、「形ある物は滅す」と、捨ててしまう考え方もあります。また、欲しければ、中古品を購入する事もできます。修理代と中古品の価格は、ほぼ同額、若しくは修理代のほうが少し高くなるでしょう。
長い間の相棒ですから、修理出来るものならしてやりたい。これが、日本人の考えでしょう。でも、直してどうなる? 別に今までより便利にはなりません。木瓜爺迷っている内に、いっそAPSーCサイズのデジ1眼そのものを捨てたらどうなる? と、考え始めました。フルサイズのデジ1眼D700はまだ健在です。ただ 、使用年数からいうと、やがて、同じような運命をたどることになるでしょう。それと、1台では心許ないという感じがあります。そう考えると、もっと新しい機械を補充したいという欲も出て来ます。

コンパクト・カメラは何台かありますから、写すだけなら、新しいものの必要はありません。でも、「もうちょっと高品質の写真を写したいという欲」が出ると、「新しい機械 という物欲」に育ってしまいます。この写真など、コンパクト・カメラでは撮せませんからね・・・担当したのは、壊れてしまったD300 です。
いやはや、やっかいなのは「欲」ですね。・・・・ まさに「うろじウロウロ」です。

文字だけ2500字・・・読むのに疲れますね。目休めの写真を入れておきましょう。
今日のブログは、Open live writer から投稿出来ませんでした。 理由はこれから調べます。

2017年2月6日月曜日

test投稿: OpenLiveWriter からの投稿テストです

いずれ、「木瓜爺撮歩」のシリーズをこちらに書くことになるだろうと思い、従来とあまり変わらぬスタイルで投稿出来るかどうかのテストをしております。
テストが終わりましたら、削除の予定です。
文章と写真が混在しますので、いくつかのレイアウトを作って試しておきます。まず画面の右側に写真がある形を作ります。
D7A_7632- mizudori
昨日歩いた昭和公園の池にいた水鳥から・・・画像サイズは、マウスで適当に拡大しています。
時々行う2枚並べの形を作ります。D7A_7634- 水仙




 WRITER上では上手く並んでいますが、投稿したときどうなるか・・・・
 とりあえずこの形で投稿して見ます。

下書き編集の状態では、写真の大きさが変化しています。これは標準サイズになっているのが? そのため、レイアウトがみだれました。写真と写真の間に文字列が入り込みました。 でも読めないほどではありません。
これで、公開してみます。
公開した画面は、元の投稿画面のレイアウトを保ちました。編集時点の画面の違いに慣れる必要はありますが、ナントカやれそうです。  めでたしめでたし です。・・・・で、すててこそ(5)を投稿したら、受け付けてくれません。
文字数の問題か、画像の大きさなのか? ウロウロしてしまいます。

2017年2月2日木曜日

捨ててこそ(4)

「実行有るのみ」と、まず始めたのは、デジタルカメラを使い始めたころ作っていたインデックス・ファイルの整理です。フィルム時代の「コンタクト・プリント」の習慣が残っていましたから、全部の画像を一覧形式で印刷し、整理番号をタイトルなどを書き込んで、バインダーファイルに綴じていたのです。最初の頃は、一回カメラを使っても、一枚の印刷で済んでいたのですが、デジタルはフィルムと違って沢山写せるのだ・・・と、段々一回のショット数が増えて行きました。40カットを1枚に納めて10頁などということが起こるようになり、KING JIMの厚さ90mm程有るファイルが並びだし、書棚を占領してしまいました。この方法は駄目だなあと、いつしか中止したのですが、これをまず、半分に減らそうと、1回の撮影のプリントを1枚だけ残して、ほかは捨てるという作業を始めたのですが・・・「おう、これは孫を連れて**へ出かけた時だなあ・・・」なんて思ってしまうと、ここに写っているのは可愛いな・・・この頁は残しておくか・・・なんてことになりまして、ちっとも減らないのです。

捨てるためには、感情を捨てないといけないらしい・・・

昔の研究資料・レポートの控えなども、もういらない筈なのですが、うっかり読み始めると、この時苦労したなあ・・・などと、捨てる気力がなえて来ます。 純粋の価値以外の思い出的なものを捨てるということがなかなか出来ないのですね、 というわけで、木瓜爺 苦闘中です。まだ悟れません。

冬の間に片付けて、などと思っていたのに、もう梅の花が咲き出しました。