2017年5月1日月曜日

2017/05/01: My Family history 〔2〕 学柳明圓沙門 その1

三月のはじめに、始祖? 天山禅師大和尚 の事を書いてから、あっという間に2ヶ月過ぎました。今日から書く「学柳明圓沙門」は、我が家の初代になります。戒名に「沙門」とあるのは、嘗て僧籍にあったことを意味して居ます。彼は、天山禅師の養子になり出家しますが、故あって、方向転換。俗世間で生きます。その時、天山禅師が使っていた「村岡」姓を名乗ったと思われます。

我が家系で、世間に知られた功績を残したのは、「此の人」です。以降は尻すぼみ(?)のようです。「此の人」などと他人行儀なことを書いていますが、木瓜爺の祖父に当たります。ただ、木瓜爺がこの世に生まれた時には、すでに他界しておりましたので、写真でしか逢ったことがありません。戒名の「学柳」は画号です。本名は「明圓」。これは、僧籍にあった時の名前だろうと思いますが、戸籍はこれで作られています。それ以前は「幼名」として「政之助」。 ただ、木瓜爺は、「学柳おじいちゃん」と聞かされていましたので、その呼び方が最も馴染んでいます。

「明圓」については、彼が卒業した「蔵前高専」、つまり現在の東京工業大学の前身である学校の「蔵前校友誌」と、「大阪現代人名辞書」に公表された記録があります。また、彼が手がけた作品は、東京藝術大学の美術館に保存されています。

「明圓」の職業は、「図案家」、デザイナーなのです。

これらの文書は、「明圓」が名を成して以降のことであって、幼少の頃については、我が家の言い伝え、メモ書きなどでしか分かりません。通常最も頼りになるはずの、戸籍謄本が謎をはらんでいるという状態なのです。

今回は、まず我が家にある「伝記(?)」をたどり、次回には、前述の二文書の記述をご紹介したいと思います。この「伝記」は、木瓜爺の母が、亡くなる少し前に、いろいろ思い出して書き残してくれたノートに記されていました。誤りと思われる部分も有りますが、とりあえず原文のまま・・・前述の二文書から写したのではないかと思われる記述が多くの部分を占めています。

『村岡学柳の経歴  明治7年4月30日 金沢藩士田中政一の次男として京都烏山高辻に生まる。 父母を早く亡くし、五才の時 村岡天山の養子となり 仏門に入り明圓となる。 小学校卒業後 愛知中学に入学 家事の都合上途中退学し 僧としての修行する。 京都市内を托鉢しながら、今尾景年氏に師事して絵を学び 画号を学柳となる 西陣織物の下絵を描く。 書画を以て身を立てんと志し 東京工業学校 図案専科に入る 研鑽数年 技大いに進む 在学中成績優秀にして 銀牌の賞を受ける。

卒業の後 群馬県に赴き 物産地 図案奨励の為 周く県下を遊歴す。後、愛知県勧業課の招聘に応じ、農商務省 井手技師に随行し 大日本図案協会 商議員審査員となり斯界に其の名を知られる。 各地展覧会博覧会等に作を出し、江湖の称讃を博し 賞牌褒状を受ける事数回。

明治三十五年 東京高島屋呉服店に在る時 宮内省の下命に依り 明治天皇 並びに皇太后陛下の御大礼服考案の光栄に浴せし事あり 

日清日露の戦役に参加

其の後、高島屋本店詰となり 図案部主任として経営に任ずる事十年余 明治四十五年 大正二年一月退店し同店の顧問となり傍ら自営する  大正六年二月より 大阪十合呉服店に入店して意匠部を統括す 昭和六年九月五日 死亡』

 明圓の父は金沢藩士となっていますが、どうも維新の頃、金沢を脱藩して攘夷に騒動に加わった人々の一人だったのではないかと思われます。しかし、本当に「田中政一」であったのかどうか、証拠が見つけれないのです。「父母を早く亡くし」の部分の詳細が全く分からないのです。なお、政一の二男と母は書いていますが、政之助という名前から見て長男だったのではないかと思います。後で出てきますが、入籍した先の扱いが二男なので、書き違えたのではないでしょうか。

昭和六年(1931)に死んだ明圓は享年56才と伝えられています。満年令か数え年かハッキリしませんが、昭和初期のことですから数え年でしょう。そうすると、生まれたのは、明治9年(1876)くらいになりそうです。なんかおかしい? 木瓜爺の父「唯法徹心居士」が、相続の頃に戸籍謄本を取り寄せて、主要事項を書き写したメモが残されています。それには、こう書かれています。『村岡明圓(政之助) 明治四年四月三十日生  明治十六年一月二十日 京都府下京区東松屋町 田中政七 二男入籍 明治二十三年三月二十八日改名』

これが正しいとすれば、死んだのは60才ということになります。 父の写し違いかも知れません。そしてこのメモの重要問題が、明治十六年(1883)田中政七 二男に入籍 という記述。つまり、それまで、政之助には戸籍がなかったことになります。謎です。戸籍法が始まったのは、明治4年頃でしょう。実際に全ての戸籍が整えられたのは数年後だろうと思いますから、宙ぶらりの人がいても不思議ではありませんが、それにしても、明治16年入籍というのは不可解。これは、恐らく中学あたりに入学する為に、戸籍を作る必要を生じ、田中政一の弟、政七に入籍して貰ったのではないでしょうか?

何らかの理由で、父母を殆ど同時に失った幼児を、天山が拾い、育てていたような気がします。そして、小学校に入る時には養子の形をとり、親戚があることが分かって、あらためて、戸籍を作らせた・・・というような、経緯が隠れているように思われます。

「家事の都合上途中退学」というのは、天山が住職をする寺を変わったというような事情がありそうです。明圓は家事として托鉢にまわらされ、それをサボって(?)、画の勉強をしたというようなことを、祖母に聞いた事があります。托鉢にまわった家が画家だったので、ちょくちょく見に行き、弟子にして貰ったのでしょうか?


「学柳」の署名のある画は、手元に何枚か残されています。今、床の間には、端午の節句用の掛軸「兜」が掛かっています。右の絵は、家紋をいれた袱紗に学柳が書いたものです。


師の「今尾景年」は、著名な画家です。『日本画家。京都生。名は永勧、字は子裕、景年は号、別号に聊自楽居。初め浮世絵師梅川東居に師事、のち鈴木百年に四条円山派を学ぶ。花鳥画を得意とし国内外の博覧会で多数受賞するなど高い評価を得た。帝室技芸員・文展審査員・帝国美術院会員。大正13年(1924)歿、80才。 』 と、コトバンクにも出て来ました。 
続きは何時かけるかな?

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