2017年3月28日火曜日

ぼけの始まり(2) 記憶が点線状態に?

普通の人でもあることなのでしょうが、自分の脳が心配になってくると、ひどく気になることを書いておきます。一つは、一昨日感じたことです。 彼岸に墓に備えた花が枯れているかも知れないと気になり、父の月命日でもあり、様子を見に行きました。雨が降っていましたので、久しぶりに車で出動です。雨ですから、傘を持って行かなければ・・・持って出たつもり・・・
 車が少なくなる「昼休み時間」に往復したいという気持ちで、出かけたのは11時をちょっと過ぎた位でした。道路は、予想していない場所でちょっと混みましたが、まあまあ順調に走れました。この走行の途中、「七曲がり峠」という山越えがあるのですが、最近は二曲がりくらいで峠を越えるように道が変わっています。この峠の附近に、「切欠」というカタクリの花が咲く場所があります。もう咲いているだろうな・・・などと思いながら、手前にある「東秋川橋」を渡ったことは覚えています。ところが、七曲り峠を越えた記憶が無いのです。戸吹にあるゴミ焼却の熱を利用している「日帰り温泉?」の横を通り、川口川を渡る辺りまで走って、車がやや渋滞気味になったときになって、「はて?七曲峠越えたっけ?」 という疑問が浮かびました。どうも、「認識ー記憶」が不連続になっているようです。

これに気付いて、先日起きた事件(?)を思い出しました。老人クラブでのことです。有る会合の席上で、Aさんに、次の行事の為の買物用のお金をに入れた袋を渡したのです。袋には、用途・金額などをメモ書きしてありました。Aさんは、一緒に買い物に行く予定のBさんにその袋を見せて、買い物に行く日を打ち合わせているようでした。
所が、それから数日して、道でAさんとBさんが乗った車に出合った時、助手席のBさんが窓をあけて、「立て替えて買い物してきたから、お金頂戴」と言うのです。「お金はAさんに渡してありますよ」。ところが横にいるAさんはキョトンとしています。まったく覚えていないのです。 路上での立ち話なので、あとで・・と、、分かれました。
 戻って暫くして、Aさんから、金は貰っていないという電話。こちらは、出金伝票を見ながら、何時渡したかを説明。「車の中に置き忘れているのかなあ? もう一度探してみます」ということになり、
 さらに何日かして、「ありました。当日着ていた洋服のポケットに入っていました。」と電話がありました。前後のことを含めて、記憶がすぽんと脱落してしまっていたようです。一生懸命思い出して、着ていたものにたどり着くのに時間を要したようです。
 ここまで来ると、単なる「物忘れ」ではなく、やはり「痴呆性の症状」が出始めているとしか思えません。

 こういう症状を抱えた老人達の自主的活動という「老人クラブ」。まともに運営できるのは奇跡でしょうねえ。  活動には、市から助成金が出ています。そして、公正な会計処理と決算報告を求まられます。 どこまで、木瓜爺の脳が対応してくれる事やら・・・・後継者を育てれば良いのですが、任意加入の団体ですから、後継ぎが入ってくれないと駄目なのです。何人か候補は居そうですが
、何故かコンピュータやワープロに無縁だった人ばかりのようです。市からの助成金申請書などはCDRで渡されますからねえ・・・
ここで、ちょっと一休みして、散歩してきました。・・・・・
話変わりまして、墓地についた木瓜爺、雨が一段と強くなりだしていたのですが、車から出ようとして傘を探したら・・・ありません。おかしいなあ? ・・・・はっと気が付きました。ガレージの扉を開くときに、持って出た傘を、車に入れないで、屋外の傘立てに入れて仮置きして・・・それを忘れて、車に乗ってしまった!
かくの如く、意志と行動のつながりもまた、点線状態になって居るのです。悲しいものですね。

2017年3月1日水曜日

2017/03/01 My Family history 〔1〕 天山禅師

こういうタイトルがふさわしいかどうかよく分かりません。 ただ、どこかに書き残して置きたいと、入力を始めました。
木瓜爺の姓は「村岡」といいます。この姓を使い始めた「始祖」(?)は、戒名が「天山禅師大和尚」と申します。禅宗の僧侶でした。なぜ、初代と書かないかというと、僧は家を捨てているからです。それで、「出家」という表現になるのでしょう。わが家系の初代は、「学柳明圓沙門」。彼は出家から還俗して、養父の「村岡」という姓を名乗ったように思われます。還俗したので、ここから「村岡家」が始まったのです。
  しかし、「天山禅師」のことを書かないと、私の気が済まないのです。其の理由は、最後に書きます。
 「学柳明圓沙門(以下 明圓 と書きます)」の養父であった 戒名「天山禅師大和尚」は、俗名不明ですが、弘化元年(1844)生まれ、愛媛県温泉郡橘村 竹田平作三男分家と、私の父が記録しています。したがって、本来なら、「竹田天山」であるはずなのです。分家に際して「村岡」姓を名乗ったのか、戸籍法が出来て、戸籍を作る時に「村岡」としたのか、その辺りは分かりません。父の書いた記録というのは、おそらく「明圓」が亡くなった時、持家の相続関係作業で取り寄せた戸籍謄本の抜き書きだろうと思います。昭和6年頃の話なので、今のように謄本のコピーを残しておくということも出来ないから、メモしたのでしょう。
 「天山禅師」がどういう宗派であったのか、今となっては分かりません。我が家にあった古い仏壇に置かれた僧の絵を、祖母か「隠元禅師」だと子供の私に教えてくれたことがあり、また、祖父「明圓」の持仏が「阿弥陀如来」であったことから、禅宗でも「臨済宗」か「黄檗宗」ではないかと思っていました。ところが、最近インターネットで、調べてみると、「天山」が住職を務めた寺のあった奈良県吉野郡東吉野村麥谷あたりは、曹洞宗のエリアなのです。現存する寺では麦谷の「禅昌寺」「竜渕寺」、大豆生の「汲泉寺」などです。ひょっとすると祖母が「道元」を「隠元」と言い違えたのかなあ?などと思うようになりました。つまり、「天山」も「曹洞宗」ではないのか、ということです。

 木瓜爺が小学校1年の頃、母に連れられて、東吉野村に行きました。「天山禅師」は既に亡くなっていました(大正年中没、過去帳の記録、年数読めず)が、この「天山禅師」の弟子である「浅井和尚」(この名前だけ記憶に残っています)が、「天山」が住職をしていた寺を継いでおり、そこで「天山」の妻であった「村岡寛恵」(つまり、私の曾祖母にあたります)を母親のように養っていて下さいました。私達は、この曾祖母を「麦谷のおばあちゃん」と呼んでいたのでした。この曾祖母は安政5年(1859)の生まれ、亡くなったのは昭和20年(1945)9月。戒名は「天真院満室貞光大姉」。我々は、東京に来ていまして、さらに終戦直後の混乱の最中でしたから、お葬式にも行けませんでした。この時、参列出来ていれば、これから書く記憶話が、ずっと正確になっていたでしょう。
 木瓜爺の小学1年の頃に戻ります。先ほど書きましたように、大阪に住んでいた私は、夏休みに、母に連れられて、この曾祖母の住む寺に遊びに行ったことがあるのです。この時に、「天山」について、いろいろな事を伺うチャンスはあったのですが、なんせ数え年7才の子供の時ですから、そんなことは無関心。寺の庭に植えてあった「ミニトマト」の実を囓りながら、村の子供達の遊ぶ姿を「漆の木」に掴まって眺めていました。・・・・子供達が何か注意をしてくれているらしいのですが、言葉が分かりません。何を注意してくれていたは、後で分かりましたが「漆の木につかまると、かぶれるぞ」だったのです。都会ッ子の私には「漆の木」という知識が欠落していました。幸いに、かぶれもしないで、何日かを過ごし、「故郷」というものを味わったのです。ただ、私が60才に近づいた頃、大台ヶ原を車で訪ねたとき、この寺を探そうと、東吉野村を走ったのですが、記憶に残っている風景とほぼ一致する場所を見つけたのは、「麦谷」の隣の「大豆生」という場所でした。徒歩で川を渡り、杉木立の細道を上っていった所にあった無住に見える寺には「妙見院」とありました。本当にそこが遊びに行った寺だったのかどうか、よく分からないのです。最近のインターネットでの地図確認では「汲泉寺」か、其の少し手前あたりか、と思われます。

「天山禅師」の話に戻ります。竹田家を出家されたあと、どのような修行を積まれたのか、興味がありますが、全く分かりません。「曹洞宗」であれば、永平寺などで修行されたのでしょう。養子「明圓」にまつわる話のほうから推察すると、明治10年頃には、京都の寺におられ、明治15年頃には、愛知県の方に移られたようです。最後の奈良県東吉野村では、3寺の住職を兼ねたと母から聞いています。そのうちの一つが、曾祖母が暮らしていた寺でしょう。なお、「寛恵」は、奈良県櫻井の出身で、年齢も随分離れていますから、天山が奈良に移ってから連れ添ったのでしょう。
 「天山禅師」と私とは、DNA的なつながりはありません。しかし、以前に、こういうことを言われた記憶があるのです。どこで誰に言われたのかハッキリしないのですが、「守護霊」の話。「私の背後に えらいお坊さん がついて守ってくださっている。」というのです。勿論、その時は、あはは、それは有難い・・で、終わったのですが、もし、そういうことがあるのだとしたら、それは「天山禅師」なのではなかろうか・・・と、最近思い始めたのです。これが、どうしても「天山禅師」のことを書いておきたいという「理由」なのです。
 次回は、「天山禅師」の「養子」になった「学柳明圓沙門」のお話です。これは、一回では書き切れそうにありません。