2017年10月12日木曜日

2017/10/10 My family History (13) 一修山慧居士 (其の4 大学生時代ー1)

 **大学生時代を書き始めたのですが、体力の低下が著しくなり、長時間入力が困難になって来ましたので、何回かに分けることにしました。分ければ、ダブりも出てくるかも知れませんので、気が付いたら修正加筆してゆきます**

山梨大学に入学して、本人はほっとしたのですが、学資を出してくれる母には、大変な負担をかけることになってしましました。つまり、生活費がかかるのです。最初の計算では、2500円の奨学金を貰い、8000円ほど補助して貰えば、何とかなるという計算でしたが、あとでよく考えると、当時の大学卒業生の初任給が、1万円程度だったのです。つまり、店を開いたばかりの母の立場で考えると、全然働かない大学生の新卒を一人雇ったことになりますから、大赤字です。これは大変な事です。

後年、倅がやはり地方大学に入って、その仕送りをするときになって、改めてその大変さを認識しました。

当初は、「学生寮」に入りました。1年半ほどして、「下宿生活」に移りますが、そうなると、送金依頼も増えて、12000円になってしまいました。アルバイトが予定通りに行かなかったというこも有ります。今のように多彩なバイトが無かったのですね。多いのは、所謂「家庭教師」。実は下宿生活になったときも、「家庭教師割引の下宿料」にして貰ったのでした。その時は、丁度近所に高校受験の中学生が3人いまして、面倒を見ましたが、上の二人を無事に希望校に入学させると、年下の子は、一人じゃいやだと、止めてしまい、生徒が途切れてしまいました。

話が飛んでしまいましたが、入学直後の「学生寮」に戻ります。昔陸軍の兵隊さんがいたという「旧兵舎」。二階建で、大部屋が並んでいます。多い時は一部屋4人になることもあったようですが、私の時は、3人部屋が多かったようです。同学年ではなく、学年の違う人達が一緒でした。

南側の窓に腰掛けて、鳳凰三山を眺めて過ごした時間・・・山に対するあこがれがすり込まれた時期です。武蔵野に育った木瓜爺には、茅が岳、八ヶ岳、南アルプスの山々は見た事もない風景でした。勿論冨士山も見えますが、甲府盆地からの冨士山は、6合目あたりから上だけしか見えません。お、今日は「瑞牆山」も見えるぞ・・なんて、北側の窓を覗きにいったり・・・碌に勉強もしないで、ぼーっと山を見ていた時間がどのくらいあったのか・・・

学問の方は、最初は順調でした。一年生というのは、教養科目というのでしょうか、語学、法律など一般的科目が多いのです。この種の教科には落とし穴が有るのです。何かというと講師がマンネリ化していて、毎年同じ事をしゃべって事足れりとしているのです。学生のほうも、単位を取るためにだけ講義に顔をだす。代返をたのんでおく。という流れで、遊びに出かける。試験の前には、代々伝わる先輩のノートをみて勉強する・・・試験問題まで伝えられています。年々同じような問題がでるわけですね。

遊びに行く先で一番多いのは、雀荘です。たまたま、木瓜爺は高校生時代に「賭けやインチキのない麻雀」を卒業?してしまっていましたから、誘われても出かけることは少なかったようです。

そんなわけで、1年生の時の修得すべき単位は、割合楽に取りました。ただ、第二外国語のドイツ語は危なかったです。語学には能力が無いようです。この1年で沢山単位を取ったことが、2年次の油断を生みます。









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