2017年10月30日月曜日

2017/10/30: My family History(14) 一修山慧居士(其の5 大学生時代-2)

学生寮の生活では、様々な人間がいるのだということを学びました。大学に通いながら、酒を飲むために(?)血を売っているという姿も見ました。飲んでいたのでは間に合わないので、エチルアルコールを直接血管に注射している姿を見たこともあります。若しかするとアルコールではなく、別の麻薬系だったのかもしれません。本人はビタミン剤だなどと言っていましたが、注射後ご機嫌が良くなるので、アルコールが入っていたことは、間違いないでしょう。普通の生活から見ると、どう考えても異常な人々が周辺に見受けられました。そういう流れに巻き込まれないように生活して行くには、やはり、普通の生活をしている人々と交われる、市中の下宿の方が良いのかなと、2年生になってから、学生寮を出ます。
  とはいえ、すれすれラインのところで、面白い経験もありました。飲んべえの上級生で、将棋の好きな人がいたのですが、棋力はあまり強くありません。その人が、「寿司を只で食べに行こう」と誘ってくれたのです。寄宿舎から南に少し下った所に、飲み屋街が有ったのですが、その中の一軒、店主では無くその倅だったか、まだ若い職人さんで、将棋の好きな人がいまして、「俺に勝ったら、寿司を只にしてやる」と上級生を誘って、一種の掛け将棋をしてくれたらしいのです。所が、何度やっても、上級生は無料の寿司にありつけない。それで、私に「代打」を依頼して来たわけです。
 当時、私の正式な棋力は、将棋連盟傘下のアマ棋力認定状で、13級だったと思います。カードを持っていました。当時の常識的棋力差でいうと、アマ初段に飛角落でさせれば、12級でした。ただし、この認定をいただいたのは受験勉強を始める前でした。だますわけには行きませんから、「1年ちょっと前に13級でしたけど」と、カードを見せた上で、「わかった、平手で、勝ったら無料にするよ」。貧乏学生に対するボランティア気分で、OKして貰えたようです。
先輩すかさず、2番勝ったら、俺の分も只にしろ・・始終来ている常連客(あまり上客ではなさそうですが)ですから、ちゃっかり便乗。
 中盤に進む頃には、相手の棋力は見えて来ましたから、最初の一局は、きわどく勝つことにしまして、まず一勝。自分の分を獲得しました。そうそう、店はまだ開店時間でないころから始めたのです。続いて、上級生用の一局。「お店忙しくなりそうですね。早指しで行きましょうね。」。まだ弱いとはいえ、相手の棋力は見切っていましたから、ちょっと頓死気味に討ち取って、「あれ?詰んじゃった!」 誘ってくれた上級生の分も獲得出来ました。
 「連盟の免状って、結構強いんだなあ」。職人さんは、地元の将棋のグループでは、一桁級のランクにおられたようです。かなり、熱くなられて、また来てよ・・・向こうから再挑戦を受け、その後も1回、ご馳走になれましたが、申し訳ないので、お金を持ったときに、行くように変えました。
 認定状より強くなったのは、この1年、土木科のA君と知り合って、鍛えて貰っていたのです。当時工学部の学生で一番強いと言われたA君。どういうわけか、最初の一局で、問題にならないと思われた私が快勝してしまったのですね。多分、強いA君が私の棋力を探っているうちに、「横歩取」からの速攻が決まってしまったのでしょう。2局めからは、A君も容赦してくれません。この年13連敗。1勝13敗で一年終わりました。彼は相当強かった。・・・大学最後の年度の成績が、3勝2敗。この年だけは勝ち越して終わりました。

 将棋といへば、大山名人に(?) 「ゆで小豆」の缶詰を10個ほど頂いて、友人達に振る舞ったこともありました。名人戦が甲府でありまして、駅前で「大盤解説」があり、恒例の「次の一手」のあてものが有ったのです。その商品が「ゆで小豆」缶詰5個だったのですが、なんと、午前中の問題と、夕方の問題の2回、当ててしまったのです。正解者が少なかったのかも知れません。両方で10個になってしまいました。
 甲府の駅前に、「大道将棋」を出していた香具師とも仲良くなりました。何度か破って、ピースを頂きました。かれの話ですと、駅前や甲府銀座で、大道棋を破ったのが、私とA君だったそうです。香具師の家まで遊びに行って、「甲府で美味いもの、食べさせて」とねだりましたら、自家製の「ほうとう」をご馳走してくれました。暖かい思い出です。
 4年間の学生生活の時に、甲府市のアマチュア将棋の皆さんの教わったことも多かった気がします。そういえば、後の「米長名人」。当時小学校の1年生だったかな、もう少し上になっていたか?、将棋会で大人がきりきり舞いをさせられていました。
 次は、下宿生活の思い出を綴ります。

2017年10月12日木曜日

2017/10/10 My family History (13) 一修山慧居士 (其の4 大学生時代ー1)

 **大学生時代を書き始めたのですが、体力の低下が著しくなり、長時間入力が困難になって来ましたので、何回かに分けることにしました。分ければ、ダブりも出てくるかも知れませんので、気が付いたら修正加筆してゆきます**

山梨大学に入学して、本人はほっとしたのですが、学資を出してくれる母には、大変な負担をかけることになってしましました。つまり、生活費がかかるのです。最初の計算では、2500円の奨学金を貰い、8000円ほど補助して貰えば、何とかなるという計算でしたが、あとでよく考えると、当時の大学卒業生の初任給が、1万円程度だったのです。つまり、店を開いたばかりの母の立場で考えると、全然働かない大学生の新卒を一人雇ったことになりますから、大赤字です。これは大変な事です。

後年、倅がやはり地方大学に入って、その仕送りをするときになって、改めてその大変さを認識しました。

当初は、「学生寮」に入りました。1年半ほどして、「下宿生活」に移りますが、そうなると、送金依頼も増えて、12000円になってしまいました。アルバイトが予定通りに行かなかったというこも有ります。今のように多彩なバイトが無かったのですね。多いのは、所謂「家庭教師」。実は下宿生活になったときも、「家庭教師割引の下宿料」にして貰ったのでした。その時は、丁度近所に高校受験の中学生が3人いまして、面倒を見ましたが、上の二人を無事に希望校に入学させると、年下の子は、一人じゃいやだと、止めてしまい、生徒が途切れてしまいました。

話が飛んでしまいましたが、入学直後の「学生寮」に戻ります。昔陸軍の兵隊さんがいたという「旧兵舎」。二階建で、大部屋が並んでいます。多い時は一部屋4人になることもあったようですが、私の時は、3人部屋が多かったようです。同学年ではなく、学年の違う人達が一緒でした。

南側の窓に腰掛けて、鳳凰三山を眺めて過ごした時間・・・山に対するあこがれがすり込まれた時期です。武蔵野に育った木瓜爺には、茅が岳、八ヶ岳、南アルプスの山々は見た事もない風景でした。勿論冨士山も見えますが、甲府盆地からの冨士山は、6合目あたりから上だけしか見えません。お、今日は「瑞牆山」も見えるぞ・・なんて、北側の窓を覗きにいったり・・・碌に勉強もしないで、ぼーっと山を見ていた時間がどのくらいあったのか・・・

学問の方は、最初は順調でした。一年生というのは、教養科目というのでしょうか、語学、法律など一般的科目が多いのです。この種の教科には落とし穴が有るのです。何かというと講師がマンネリ化していて、毎年同じ事をしゃべって事足れりとしているのです。学生のほうも、単位を取るためにだけ講義に顔をだす。代返をたのんでおく。という流れで、遊びに出かける。試験の前には、代々伝わる先輩のノートをみて勉強する・・・試験問題まで伝えられています。年々同じような問題がでるわけですね。

遊びに行く先で一番多いのは、雀荘です。たまたま、木瓜爺は高校生時代に「賭けやインチキのない麻雀」を卒業?してしまっていましたから、誘われても出かけることは少なかったようです。

そんなわけで、1年生の時の修得すべき単位は、割合楽に取りました。ただ、第二外国語のドイツ語は危なかったです。語学には能力が無いようです。この1年で沢山単位を取ったことが、2年次の油断を生みます。