2017年9月30日土曜日

2017/09/30:My Family History (12) 一修山慧居士(その3 高校生時代)

 昭和25年3月23日、国分寺中学校を卒業した「チビ」は、昭和25年4月4月に、「東京都立立川高校」に入月した筈なのですが、関連する書類が残っていません。何とも不思議なのですが、卒業したときの「卒業証書」だけしか残っていないのです。
 この「立川高校」ですが、めまぐるしく名前が変わりました。新制中学になる以前は、「府立2中」「都立2中」です。東京の府立1中は後の「日比谷高校」、4中は「戸山高校」、「立川高校」も名だたるナンバースクールの一つでした。
新制の高校になった時が、「都立貳高」です。木瓜爺が最初に購入した学帽には、この「貳高」の徽章が付いていました。暫くして「立高」の徽章に変わったように思います。学生服の襟に付けたバッジは紫だったか? 一年上は緑でした。
当時の高校進学率は、まだ35%位だったように思います。兎に角、苦労らしい苦労もなく、進学してしまったもので、なにかふわふわした気分で、3年間を過ごしてしまった反省があります。本来なら、腰を据えて将来の進路について考えねばならなかった筈なのですが・・・
クラブ活動は、誘われるままに「地歴部」という、遺跡の発掘などをする部に名を連ねましたが、勉強するわけでも無く、部室で早弁をたべ、将棋の好きな友人と盤に向かう毎日です。残念ながら、将棋部がまだ無かったのですね。同学年で、一段棋力が上と見なされた3人の尻尾に加わっていました。他の二人は、チビよりも、終盤が強かったのです。この二人は、詰将棋の愛好者で、うち一人は、「詰将棋パラダイス」という専門の雑誌に作品が掲載される程の腕でした。この連中と付き合うことで、チビの棋力も格段に上がりだしたのです。つまり、「新作」に余詰めが無いかなど検討するからです。「余詰」というのは、作者が意図した詰め方以外の詰め方があったときの名前です。
学年での旅行・・遠足ですかねえ・・箱根の乙女峠を登りながら、彼らと「盤駒なし」の「脳内将棋」・・当時は「盲将棋」と呼んでいましたが、差別用語であるということになり、「脳内将棋」と呼ばれるようになりました・・を指したことを思い出します。
高校にいるときは将棋、土曜日の夜になると、中学生時代の仲間が集まって「麻雀」。麻雀を覚えたのは中学3年の頃ですから、面白い盛りが高校生時代だったのです。学生ですから、賭ける金などはありません。ノートを作って、成績を記録するだけです。
その時の採点法は、かなり工夫されたもので、大勝や大敗の運の要素を平滑化して行くような評価法になっていまして、一年も継続すると、実力的なレイティングが分かる物でした。ただし、大事な「つきを呼ぶ力」の評価に思い至らなかったのは残念です。分析力の不足です。
高校3年の運動会の仮装行列では、女装させられ「卑弥呼」になった写真がありましたが、自分でも区別が付きません。
そういえば、「チビ」と呼ばれなくなっていたのです。高校一年生の時に延びた身長が13cm、2年でまた7cm程延びまして、人並みになってきたのです。卒業の時には、165cm程になっていました。ただ、下半身のひ弱さは残っていまして、体力測定で100mを20秒もかかってしまい、本気で走っているのか!と、どやされました。
 高校の学業で、履修した学科を見ると、何かを考え始めたことは分かります。というのは、「理科」の科目は、「物理」「化学」「地学」「生物」と4学科全部受けています。反面「社会科」は「一般社会」と「日本史」しか受けていないのです。「世界史」を学ばなかったことは、後々、大きなハンデキャップになってしまいました。
 理系に進もうと考えたのだけれど、どういう専門が良いのか分からなかった・・と、云うことでしょうか。
大学への進学が現実の問題となったとき、頭に浮かんだのは、祖父「学柳明圓沙門」が在籍したという「蔵前」つまり、現在の「東工大」です。一方家族などの周辺からは、2年先輩に当たる叔父が、一浪して入った「東大」です。受験用の問題集などを見て、試してみると、どちらもハードルが高すぎることがハッキリ分かります。叔父の力をしても一浪、高校時代遊んで居た俺では3浪くらいしそうだ・・・めげました。
 我が家の経済力から考えると、浪人は出来ない、何とか早く社会人として給与を貰えるようになる必要がある。しかし、普通高校卒業だけで、すぐ就職しても、とても稼げる世の中ではないらしい。やはり専門性を持たないといけないようだ。当時、大学進学率は7%とか言われていましたが、実際は10%位はあったようです。
考えた末、表向きは「東大」「東工大」を掲げておいて、実際には一発合格の出来る地方大学を見つけよう・・・私立大学は学費が足りないだろうから、出来れば国立。とまあ考えが固まって来ました。とすると、今で云う一斉テスト、この年の呼び名は「インテリジェント・テスト」で、一発屋の運を試そう・・・中学の時の「アチーブメント・テスト」再現の夢に賭けたのです。
 運良く、試験場で隣の席になったのは、同級の割合気安く話が出来る女性でした。冗談を言いながら、リラックスした気分で、問題に向かいました。結果は、上出来でした。結果が分かったとき、クラス中がエーッと驚いたくらいです。立高全体でも、上位に入っていました。一発屋の本領発揮で、得た72点。
これを、有効活用するには・・・と、悩む前に、またまた幸運がやってきます。中学から立高へと一緒に進学してきた、つまり一緒に麻雀を研究してきた(?)親友が、「山梨大学」に行かないかと誘ってくれたのです。
一緒に調べて見ると、なんと、「インテリジェント・テスト」の点を5倍して加点してくれるというのです。前年の合格者の最低点は500点位のようです。72*5=360 何だ、あと、7科目(600点満点)だから、半分出来れば660になるよ。そのくらいはできるだろう・・・と、いわゆる滑り止めの学校は決まりました。
 「山梨大学」というのは、先だってノーベル賞を頂いた「大村智」博士で有名になりました。大村さんは、一期あとの後輩ということになりますが、彼が卒業した「学芸学部自然科学科」というのは、この年にはまだ出来ていませんでした。「学芸学部」自体は普通の中学までの教員養成機関で、むしろ昔の「山梨高専」から大学になった「工学部」のほうがメインでした。「工学部」のなかで私が選んだのは「電気工学科」。これから伸びる産業は、「電気通信」だと見込みを付けたのです。「学究」の為というより、将来の「就職」を睨んだ選択でした。
それは、さておいて、当時国立大学に関しては、受験日が二通りあり、一期校、二期校と呼ばれて居ました。一期校はどうせ落ちることは分かっていましたから、格好付けて、「東大受けたけど駄目でした」にしました。実際に受験してみて、問題の質自体が、2レベル違うなあ・・・という感想です。
「山梨」のほうは、前日胸部レントゲン写真をとる(試験の一部)があり、前泊になりましたが、宿舎は、大学で用意してくれた「青年会館」。都会とは違った田園に囲まれた場所。ゆったりとした気分で、受験できました。初日が終わった所で、試算してみると、もう合格ラインに届いているようでした。後は名前の書き忘れで0点を取らなければ大丈夫だ・・・。
昭和28年3月1日 都立立川高校卒業。この「卒業証書」が残っています。







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