2017年6月22日木曜日

2017/6/22: My Family history 〔5〕 芳桂院小丘大姉

学柳明圓沙門の長女 「芳桂院 小丘大姉」の資料を失ったと書きましたが、それを書き写したと思われる ノートを見つけました。私の母が書いたものと思われますが、筆跡がかなり乱れているので、或いは 死ぬ間際に思い出してメモしてくれたのかも知れません。それを、ここに転記しておくことにしました。
『 村岡 登貴 (明圓 長女)
 書道は 山本竜山先生に師事。
 絵画は 河辺青蘭先生に師事 画号を「香波」という。後、大阪美術学校で、矢野橋村先生に師事 画号を「小丘」と改める。
 昭和五年 帝展(現在の日展)に初入選 以後 帝展に二回
 日本南画院大阪美術展に入選数回 大阪女流画家連盟同人
 戦争の最中から 東京都北多摩郡国分寺町に移り住み、戦後 「芳桂塾」を開き、習字絵画を教える。 
 昭和四十一年十一月八日 没 享年六十四才 』


朝日新聞社 発行の「南画展」という書物に 「第六回南画展 展示品二六番「田家風味」村岡小丘」という作品が掲載されているそうです。

 木瓜爺の幼い頃の記憶では、大阪の家の二階に、大きな画室があり、屏風絵などを描くときは、板を渡して其の上に乗って書いていたようなイメージが残っています。小学校に入る頃は、繪と書の家庭教師でした。

 戦争の最中、長男唯矣一家(つまり、木瓜爺一家)は、東京に移ります。暫くして、やや広い家に移れたので、同居出来ると、母ゲンと姉小丘を東京に呼び、一緒に暮らすようになりました。ただ、当時は荷物の引越は困難で、身の回りの品だけを持って、東京に来たようです。

 東京に移ったことで、小丘は画壇から離れてしまう結果になりました。大阪美聚学校以来のお友達で、子供の私もお目にかかっているのは、「融紅」さん。戦後も活躍された先生です。「融紅鸞」さんは、同じ矢野橋村の弟子、つまり同門です。そして、戦後はラジオ大阪の「悩みの相談室」で人気者となりました。「えらいこと、はじめはったなあ・・」などと、電話していたように思います。この方は昭和57年5月26日死去。76歳。大阪出身。大阪美術学校卒。

そういう点では、小丘は気の毒でした。国分寺のあばら屋で、飯炊きの竈と格闘することになってしまったからです。

 戦後の生活で、小丘ではない登貴伯母は、母代わりという位置でした。私の母は、父が職に恵まれないために、美容師として働きに出ていました。そのため、伯母が「おさんどん」の役を果たしてくれたのです。食糧難時代・・・トウモロコシの粉や脱脂大豆の粉をどうやって食べるか、悩んだ末に、センベイを作って朝食にしました。その手焼きセンベイを早朝から焼いてくれていた伯母の姿が目に浮かびます。
 私が高校生になる頃から、前述の「芳桂塾」を開いて、生徒さんと楽しみながら、時には写生旅行なども出来るようになっていました。
 たまたま、庭で転んで、足を捻挫し、其の治療に、下部の温泉、「源泉館」を紹介した所、気に入って湯治に出かけていました。「源泉館」には、滞在中に書いた小丘の繪が残っているにではないでしょうか。

 なぜ、小丘にこだわっているかと云いますと、我が家で最初に癌で死亡したのが、小丘なのです。ただし、若死にした「学柳明圓沙門」も癌だったのかも知れませんが、当時はまだ医学的にもよく分からない状態ですから、除外しています。「小丘」は「原発不明の肺癌」と言われました。レントゲンで、左肺が全く見えないといいますか、肋膜に水が溜まった状態の写真になっていました。そうなる前の源が分からないというのです。
 
 次回は「唯法徹心居士」です。私の父ですが、これがまた「肺癌」でした。

 
(追記 2017/6/28)
小丘の画友について、大物(?)を書き漏らしておりました。忘れていたわけではなく、私が生まれた時に、お祝いに頂いたという繪を探して、お名前を確認したかったのです。今朝やっとしまい場所を思い出しまして、確認出来ました。
『生田花朝』さんです。この方は、年齢的には、だいぶ上の世代でして、小丘にとっては、「大先輩」という感じだったのでしょう。小丘が昭和5年に帝展に初入選したときには、生田さんは10回目の入選をはたしておられます。頂いた色紙は、45才の時のものです。44才の時、帝展無審査ということになっておられます。晩年は「花朝女」という署名落款をされたそうですが、我が家にある色紙は「生田花朝」でした。お亡くなりになったのは、昭和53年ということですから、あの世では、小丘の方が先輩になりました。





 




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