「大東亜戦争」と呼ばれた戦争が始まる少し前に、任期を終えて中国から戻ってきた父は、家族サービスにも精を出してくれたようです。夏に、六甲山の別荘を借りて、避暑に連れて行ってくれたり、奈良の若草山で遊んだり、幾つもの思い出が重なってきます。大和川に釣に連れて行ってくれたこともありました。
唯法徹心居士は、趣味もいろいろあったようですが、その中で、釣と写真が双璧だったようです。写真に関しては、木瓜爺がブログに取り上げたような、Auto Grafrex など何台かを所有しており、アサヒカメラに投稿して、何回か賞を頂いたようで、入賞のバッヂなどが残っています。釣の方は、竿を何本も持っており、休みの日に座敷で手入れをしていたことを記憶しています。
写真の方は、木瓜爺に遺伝(?)しましたが、魚釣りのほうは、全然駄目でした。平和な生活が乱されたのは、開戦です。その前から、愛する中国を侵略する日本軍に心を痛めていたようですが、米英との開戦で、より切実な不安が唯法徹心居士を捉えました。まだ、三十代の半ばでしたから、「招集令状」が来るかも知れないという不安です。たまたまなのですが、外国語専門紋学校当時の学友が、東京で「工場」を継ぐことになり、手伝ってくれないかという誘いがあったようです。其の工場は、飛行機の部品を作る工場でした。唯法徹心居士はこの誘いに乗ります。武器の製造と云う部分では若干の抵抗はあったようですが、「軍需工場」に務めるということは、「招集」が直ぐには来ないという思惑が働いたのでしょう。
かくて、木瓜爺一家は、「大阪」より危険と言われた「東京」に、引っ越すことになりました。年末でした。父と私が先発。夜行列車で東京に出て来ました。数日後、母と妹がやってきました。最初は、中野区新井薬師に借家しました。東京の冬は寒く、木瓜爺は気管支炎を起こして、何日も学校を休んでしまい、新井小学校の事は殆ど記憶にありません。木瓜爺の気管支炎に続いて、妹がジフテリアで入院。東京の生活は、苦難の道で始まりました。
中野というのは便利な場所ですが、東京空襲が起きるとささやかれていました。もう少し田舎のほうが安全だろうと、唯法徹心居士は、工場があった「国分寺」に空き屋を探します。そして、見つけたのが、近々郷里に四国に疎開するから、この借家を譲ってもよいという方。荷物を四国に送り出して一部屋使えるようにして下さり、大家さんの了解を得て、四畳半に親子4人で暮らすことになりました。台所も、便所も共有ですから、大変でした。しかし、何日もかからず、四国に引き上げられましたので、全体を使えるようになりました。この家が、国分寺の本多新田にあったのです。
引っ越した翌年、東京大空襲で、中野で住んだ家は焼けてしまいました。この直前でしたが、牛込に住んでいた母の実家が、国分寺に疎開したいと云いだし、借りていた家を引き渡して、一家は社宅に移ります。この社宅はなかなか良かったのですが、経営者の親戚が疎開してくるということで、またまた追い出され、すぐ前にあった寄宿舎に移って、管理人を兼ねることになりました。大阪に残っていた祖母と伯母も上京してきてここに住みます。唯法徹心居士の弟は、学徒動員から、招集と続いて、習志野の基地に勤務するようになっていました。本土決戦に備えて、対戦車の迫撃砲の練習をしていたようです。戦争は、玉砕が続くようになってきていました。「寄宿舎」に入っていた若い工員さんは、すでに招集されてしまい、二世帯ほどが残っていただけでした。木瓜爺の立場でいえば、部屋が沢山有って遊ぶのに都合が良い・・でしたが。「終戦の詔」を聞いたのはこの「寄宿舎」の庭でした。
「唯法徹心居士」は、工場長でしたから、これからまた一苦労も二苦労もすることになります。工場は無論閉鎖。収入0です。細かいことは分かりませんが、何人かの人と、工場に残っていたアルミ材などを内緒で使用し、ライターなどを作って換金したりしていたようです。工場の庭にあった「矢場」を、開墾して、野菜やいもなどを作って分けたりもしていました。
立川に米軍基地が開設されると、英語が話せる唯法徹心居士は、警備の仕事にありつけました。これは、駐留米軍の縮小まで続きます。しかし、それだけでは一家が暮らす費用には不足しますので、後に「一法開心大姉」となった母は、美容師の資格をとり、住み込みで働くようになりました。復員した叔父も、民間の会社に勤務しました。
終戦時に五年生であった木瓜爺も、昭和22年、新制中学に通い始めます。暮らしは楽ではありませんでしたが、それなりに、落ち着いた日常が戻り始めました。しかし、住まいの方は、また明け渡しに迫られます。
裁判などで、粘りながら、唯法徹心居士、一法開心大姉の夫婦は、借家でない自分たちの家を建てようと決心するのです。昭和25年、住宅金融公庫が発足しました。この制度を利用して、昭和26年、国分寺駅の直ぐ近くに、25坪(当時の公庫の融資基準はこの程度の大きさまでだった)の家を建てました。土地は買えないので、借地です。
木瓜爺とその妹が中学を卒業するまでに、唯法徹心居士は、PTAの役員を二回やっています。最初の時は、木瓜爺の卒業の時に「感謝状」を頂いていますから、新制中学を整備するお手伝いをしたのでしょう。妹の時は、修学旅行に行けない貧困家庭の子供達も参加させたいと、農家や造園業を営む父兄に働きかけて、植木の苗木を寄附していただき、中学校の校庭を使って、植木市バザールを開催し、売上を、その子供達の旅費にあてて、感謝されたと聞いています。
招集令状から逃れる為に、軍需工場路線に乗り換えた判断が正しかったのかどうか分かりませんが、一度だけ、ちょっと淋しそうな顔を見せたことがあります。若い時に務めていた高島屋が横浜に開店した頃だったか、新聞を見ていて、彼が取締役になったのだなあ・・・と、つぶやいていました。そして、木瓜爺が、仕事で悩み、いっそ止めてしまおうかと思ったとき、「じっと我慢して時を待つのも選択肢の一つだよ」と教えてくれたことがありました。
このあと、唯法徹心居士は、暖めていた夢に挑みます。
木瓜爺と云う名前で、”Wordpress.com” に写真ブログを書き続けてきましたが、そろそろ「終活」を始めないといけないようです。とはいえ、まだまだ「この世」に未練があるらしく、なかなか「捨ててこそ」の心境にはなれません。「雨漏路(うろじ)」を迂路迂路しております。 新しくBlogger を使用させていただき、このあたりの迷走ぶりを記録してみようと思っております。
2017年7月12日水曜日
2017年6月30日金曜日
2017/06/30 My Family history 〔6〕唯法徹心居士 その1
「学柳明圓沙門」の長男、「芳桂院小丘大姉」の弟 に当たる「唯法徹心居士」は、村岡家の二代目に当たります。
この人は、木瓜爺の父ですが、記録に残るような業績は残しておりません。ですから、文字になるのは、これが最初かも知れません。
戸籍謄本から始まります。 俗名は『村岡唯矣』 『大阪市東区東高津北之町九十五番地に於いて 明治四十年五月十三日出生 父村岡明圓届出 』 此の後は、記念品的に残っていた、様々の記録をつないで行きたいと思いますが、逆によくまあこんな物を残してあるなあと感心されるかも知れません。多分、「唯法徹心居士」の母、「元柳明美大姉」が大切に残していたのでしょう。
大正三年四月 に、『大阪府大阪市道仁尋常小学校に入学』したようで、 大正四年三月に第一学年の修業証書と優等賞で紙挟壱個をいただいています。大正五年三月二十四日には、第二学年の修業証書と優等賞で鞄壱個。面白いなあと思ったのは、修業証書の裏面に「第一期種痘完了大正三年四月五日」という証明がされている事です。これが、翌年、つまり第三学年の修業証書の裏面には、「第二期種痘完了 大正六年三月十二日」と追加されています。調べて見ると、木瓜爺の国民学校修了証書にも同じような証明書が付いていましたから、制度として行われていたようです。そして、「優等賞」のほうは「算盤一面」。
第四学年になりますと、転校していまして、大阪市天王寺第五尋常小学校になっていますが、ここでは、「純銀賞牌壱個 硯箱壱個」これも優等賞らしい。不思議なのは、「第二期種痘」をまたされていまして、大正七年三月九日。 第五学年は「操行善良賞」で 「筆箱壱個」。
大正九年三月二十四日 「卒業証書」です。「褒賞」のほうは「操行学力共に優秀なり」で、「手箱壱個」です。良く稼ぎましたね。
小学校を卒業した唯矣は、天王寺中学校に進みます。中学時代の記録は卒業証書だけです。唯矣自身で書いた経歴書の断片が残っていましたので、それを書きます。
『大正十年四月 大阪府立天王寺中学校に入学。 大正十五年三月 同校卒業。
昭和二年四月 大阪外国語専門学校支那語部に入学
昭和五年四月 株式会社高島屋に入店 現在に至る
現職 催部主任 高島屋青年団支那語講習会 講師』
外国語専門学校の「支那語部」に入学したのは、おそらく当時の世相の反映でしょう。大陸への進出に大きな夢を描いての事だろうと思います。唯矣は、この外国語専門学校の学生の時に、仲間達と中国訪問の旅をしています。よほど大きな感銘を受けたのでしょう。死ぬ間際に、その旅行の体験を書き残しています。B5版のノート6冊を使っています。 万年筆で書いていますが、木瓜爺には読めない崩し字もあって、完読出来て居ません。書かれた時期的には、遺書に近いものなので、木瓜爺も死ぬ前に読んで、書き残してやりたいと思っていますが、間に合うかどうか・・・
卒業後の「高島屋」への入社は、学柳明圓沙門のコネがあったからですが、高島屋自体も、中国への進出に取りかかっていましたから、必要な人材だったのでしょう。
大阪外国語学校が発行した「推薦状」が残っています。宛先が、高島屋図案部の方になっています。かって学柳の部下だった方でしょう。『今春卒業予定の支那語部生徒 村岡唯矣の申し出により別紙推挙書及び学業成績表を送付・・・・』
学業成績は「良」ですから、ナミですね。人物考定というところを見ると、「品行 方正、性質 敏捷、 特徴 野球部選手・文章に長ず。」
どうやら、学生生活の後半は、野球に夢中になっていたらしい。勿論硬式です。キャッチャーをやっていました。ユニホームなども残っていまして、木瓜爺が中学生の頃、お下がりを着ていました。体格が違うので、だぶだぶでしたが、袖をかすらせるデッドボールには有利! 残念、木瓜爺のやった頃には、軟式にはデッドボールがありませんでした。
文章に長ずというのは、家の環境でしょう。学柳、小丘が居たわけですから、経文をはじめとする「漢字」にも馴染んでいます。支那語を選ぶ位ですから、中国文学にも詳しかったでしょう。ずっと後の話ですが、蔵書に「金瓶梅」などがあって、子供の木瓜爺が覗いたら、まだ早い!と叱られました。
父と母が知り合ったのは、高島屋です。母(一法開心大姉)が、女学校を出て、高島屋の売り子として入社し、父がつり上げたようです。母は18才で結婚し、19才で木瓜爺を生んでいます。その直後、唯矣は、大陸進出のブームに乗って、「チンタオ(青島)」「ペーピン(北京)」などの支店長を務めます。もう結婚していましたが、単身赴任で、2~3年向こうに居たようです。「乾燥牛肉」などという物を送ってくれて、それを食べるのが楽しみだった木瓜爺です。太平洋戦争が始まる直前、帰国したのですが、戦争が順調だった運命を変えてしまいます。そのお話は、次回に・・・・
この人は、木瓜爺の父ですが、記録に残るような業績は残しておりません。ですから、文字になるのは、これが最初かも知れません。
戸籍謄本から始まります。 俗名は『村岡唯矣』 『大阪市東区東高津北之町九十五番地に於いて 明治四十年五月十三日出生 父村岡明圓届出 』 此の後は、記念品的に残っていた、様々の記録をつないで行きたいと思いますが、逆によくまあこんな物を残してあるなあと感心されるかも知れません。多分、「唯法徹心居士」の母、「元柳明美大姉」が大切に残していたのでしょう。
大正三年四月 に、『大阪府大阪市道仁尋常小学校に入学』したようで、 大正四年三月に第一学年の修業証書と優等賞で紙挟壱個をいただいています。大正五年三月二十四日には、第二学年の修業証書と優等賞で鞄壱個。面白いなあと思ったのは、修業証書の裏面に「第一期種痘完了大正三年四月五日」という証明がされている事です。これが、翌年、つまり第三学年の修業証書の裏面には、「第二期種痘完了 大正六年三月十二日」と追加されています。調べて見ると、木瓜爺の国民学校修了証書にも同じような証明書が付いていましたから、制度として行われていたようです。そして、「優等賞」のほうは「算盤一面」。
第四学年になりますと、転校していまして、大阪市天王寺第五尋常小学校になっていますが、ここでは、「純銀賞牌壱個 硯箱壱個」これも優等賞らしい。不思議なのは、「第二期種痘」をまたされていまして、大正七年三月九日。 第五学年は「操行善良賞」で 「筆箱壱個」。
大正九年三月二十四日 「卒業証書」です。「褒賞」のほうは「操行学力共に優秀なり」で、「手箱壱個」です。良く稼ぎましたね。
小学校を卒業した唯矣は、天王寺中学校に進みます。中学時代の記録は卒業証書だけです。唯矣自身で書いた経歴書の断片が残っていましたので、それを書きます。
『大正十年四月 大阪府立天王寺中学校に入学。 大正十五年三月 同校卒業。
昭和二年四月 大阪外国語専門学校支那語部に入学
昭和五年四月 株式会社高島屋に入店 現在に至る
現職 催部主任 高島屋青年団支那語講習会 講師』
外国語専門学校の「支那語部」に入学したのは、おそらく当時の世相の反映でしょう。大陸への進出に大きな夢を描いての事だろうと思います。唯矣は、この外国語専門学校の学生の時に、仲間達と中国訪問の旅をしています。よほど大きな感銘を受けたのでしょう。死ぬ間際に、その旅行の体験を書き残しています。B5版のノート6冊を使っています。 万年筆で書いていますが、木瓜爺には読めない崩し字もあって、完読出来て居ません。書かれた時期的には、遺書に近いものなので、木瓜爺も死ぬ前に読んで、書き残してやりたいと思っていますが、間に合うかどうか・・・
卒業後の「高島屋」への入社は、学柳明圓沙門のコネがあったからですが、高島屋自体も、中国への進出に取りかかっていましたから、必要な人材だったのでしょう。
大阪外国語学校が発行した「推薦状」が残っています。宛先が、高島屋図案部の方になっています。かって学柳の部下だった方でしょう。『今春卒業予定の支那語部生徒 村岡唯矣の申し出により別紙推挙書及び学業成績表を送付・・・・』
学業成績は「良」ですから、ナミですね。人物考定というところを見ると、「品行 方正、性質 敏捷、 特徴 野球部選手・文章に長ず。」
どうやら、学生生活の後半は、野球に夢中になっていたらしい。勿論硬式です。キャッチャーをやっていました。ユニホームなども残っていまして、木瓜爺が中学生の頃、お下がりを着ていました。体格が違うので、だぶだぶでしたが、袖をかすらせるデッドボールには有利! 残念、木瓜爺のやった頃には、軟式にはデッドボールがありませんでした。
文章に長ずというのは、家の環境でしょう。学柳、小丘が居たわけですから、経文をはじめとする「漢字」にも馴染んでいます。支那語を選ぶ位ですから、中国文学にも詳しかったでしょう。ずっと後の話ですが、蔵書に「金瓶梅」などがあって、子供の木瓜爺が覗いたら、まだ早い!と叱られました。
父と母が知り合ったのは、高島屋です。母(一法開心大姉)が、女学校を出て、高島屋の売り子として入社し、父がつり上げたようです。母は18才で結婚し、19才で木瓜爺を生んでいます。その直後、唯矣は、大陸進出のブームに乗って、「チンタオ(青島)」「ペーピン(北京)」などの支店長を務めます。もう結婚していましたが、単身赴任で、2~3年向こうに居たようです。「乾燥牛肉」などという物を送ってくれて、それを食べるのが楽しみだった木瓜爺です。太平洋戦争が始まる直前、帰国したのですが、戦争が順調だった運命を変えてしまいます。そのお話は、次回に・・・・
2017年6月22日木曜日
2017/6/22: My Family history 〔5〕 芳桂院小丘大姉
学柳明圓沙門の長女 「芳桂院 小丘大姉」の資料を失ったと書きましたが、それを書き写したと思われる ノートを見つけました。私の母が書いたものと思われますが、筆跡がかなり乱れているので、或いは 死ぬ間際に思い出してメモしてくれたのかも知れません。それを、ここに転記しておくことにしました。
『 村岡 登貴 (明圓 長女)
書道は 山本竜山先生に師事。
絵画は 河辺青蘭先生に師事 画号を「香波」という。後、大阪美術学校で、矢野橋村先生に師事 画号を「小丘」と改める。
昭和五年 帝展(現在の日展)に初入選 以後 帝展に二回
日本南画院大阪美術展に入選数回 大阪女流画家連盟同人
戦争の最中から 東京都北多摩郡国分寺町に移り住み、戦後 「芳桂塾」を開き、習字絵画を教える。
昭和四十一年十一月八日 没 享年六十四才 』
朝日新聞社 発行の「南画展」という書物に 「第六回南画展 展示品二六番「田家風味」村岡小丘」という作品が掲載されているそうです。
木瓜爺の幼い頃の記憶では、大阪の家の二階に、大きな画室があり、屏風絵などを描くときは、板を渡して其の上に乗って書いていたようなイメージが残っています。小学校に入る頃は、繪と書の家庭教師でした。
戦争の最中、長男唯矣一家(つまり、木瓜爺一家)は、東京に移ります。暫くして、やや広い家に移れたので、同居出来ると、母ゲンと姉小丘を東京に呼び、一緒に暮らすようになりました。ただ、当時は荷物の引越は困難で、身の回りの品だけを持って、東京に来たようです。
東京に移ったことで、小丘は画壇から離れてしまう結果になりました。大阪美聚学校以来のお友達で、子供の私もお目にかかっているのは、「融紅鸞」さん。戦後も活躍された先生です。「融紅鸞」さんは、同じ矢野橋村の弟子、つまり同門です。そして、戦後はラジオ大阪の「悩みの相談室」で人気者となりました。「えらいこと、はじめはったなあ・・」などと、電話していたように思います。この方は昭和57年5月26日死去。76歳。大阪出身。大阪美術学校卒。
そういう点では、小丘は気の毒でした。国分寺のあばら屋で、飯炊きの竈と格闘することになってしまったからです。
戦後の生活で、小丘ではない登貴伯母は、母代わりという位置でした。私の母は、父が職に恵まれないために、美容師として働きに出ていました。そのため、伯母が「おさんどん」の役を果たしてくれたのです。食糧難時代・・・トウモロコシの粉や脱脂大豆の粉をどうやって食べるか、悩んだ末に、センベイを作って朝食にしました。その手焼きセンベイを早朝から焼いてくれていた伯母の姿が目に浮かびます。
私が高校生になる頃から、前述の「芳桂塾」を開いて、生徒さんと楽しみながら、時には写生旅行なども出来るようになっていました。
たまたま、庭で転んで、足を捻挫し、其の治療に、下部の温泉、「源泉館」を紹介した所、気に入って湯治に出かけていました。「源泉館」には、滞在中に書いた小丘の繪が残っているにではないでしょうか。
なぜ、小丘にこだわっているかと云いますと、我が家で最初に癌で死亡したのが、小丘なのです。ただし、若死にした「学柳明圓沙門」も癌だったのかも知れませんが、当時はまだ医学的にもよく分からない状態ですから、除外しています。「小丘」は「原発不明の肺癌」と言われました。レントゲンで、左肺が全く見えないといいますか、肋膜に水が溜まった状態の写真になっていました。そうなる前の源が分からないというのです。
次回は「唯法徹心居士」です。私の父ですが、これがまた「肺癌」でした。
(追記 2017/6/28)
小丘の画友について、大物(?)を書き漏らしておりました。忘れていたわけではなく、私が生まれた時に、お祝いに頂いたという繪を探して、お名前を確認したかったのです。今朝やっとしまい場所を思い出しまして、確認出来ました。
『生田花朝』さんです。この方は、年齢的には、だいぶ上の世代でして、小丘にとっては、「大先輩」という感じだったのでしょう。小丘が昭和5年に帝展に初入選したときには、生田さんは10回目の入選をはたしておられます。頂いた色紙は、45才の時のものです。44才の時、帝展無審査ということになっておられます。晩年は「花朝女」という署名落款をされたそうですが、我が家にある色紙は「生田花朝」でした。お亡くなりになったのは、昭和53年ということですから、あの世では、小丘の方が先輩になりました。
『 村岡 登貴 (明圓 長女)書道は 山本竜山先生に師事。
絵画は 河辺青蘭先生に師事 画号を「香波」という。後、大阪美術学校で、矢野橋村先生に師事 画号を「小丘」と改める。
昭和五年 帝展(現在の日展)に初入選 以後 帝展に二回
日本南画院大阪美術展に入選数回 大阪女流画家連盟同人
戦争の最中から 東京都北多摩郡国分寺町に移り住み、戦後 「芳桂塾」を開き、習字絵画を教える。
昭和四十一年十一月八日 没 享年六十四才 』
朝日新聞社 発行の「南画展」という書物に 「第六回南画展 展示品二六番「田家風味」村岡小丘」という作品が掲載されているそうです。
木瓜爺の幼い頃の記憶では、大阪の家の二階に、大きな画室があり、屏風絵などを描くときは、板を渡して其の上に乗って書いていたようなイメージが残っています。小学校に入る頃は、繪と書の家庭教師でした。
戦争の最中、長男唯矣一家(つまり、木瓜爺一家)は、東京に移ります。暫くして、やや広い家に移れたので、同居出来ると、母ゲンと姉小丘を東京に呼び、一緒に暮らすようになりました。ただ、当時は荷物の引越は困難で、身の回りの品だけを持って、東京に来たようです。
東京に移ったことで、小丘は画壇から離れてしまう結果になりました。大阪美聚学校以来のお友達で、子供の私もお目にかかっているのは、「融紅鸞」さん。戦後も活躍された先生です。「融紅鸞」さんは、同じ矢野橋村の弟子、つまり同門です。そして、戦後はラジオ大阪の「悩みの相談室」で人気者となりました。「えらいこと、はじめはったなあ・・」などと、電話していたように思います。この方は昭和57年5月26日死去。76歳。大阪出身。大阪美術学校卒。
そういう点では、小丘は気の毒でした。国分寺のあばら屋で、飯炊きの竈と格闘することになってしまったからです。
戦後の生活で、小丘ではない登貴伯母は、母代わりという位置でした。私の母は、父が職に恵まれないために、美容師として働きに出ていました。そのため、伯母が「おさんどん」の役を果たしてくれたのです。食糧難時代・・・トウモロコシの粉や脱脂大豆の粉をどうやって食べるか、悩んだ末に、センベイを作って朝食にしました。その手焼きセンベイを早朝から焼いてくれていた伯母の姿が目に浮かびます。
私が高校生になる頃から、前述の「芳桂塾」を開いて、生徒さんと楽しみながら、時には写生旅行なども出来るようになっていました。
たまたま、庭で転んで、足を捻挫し、其の治療に、下部の温泉、「源泉館」を紹介した所、気に入って湯治に出かけていました。「源泉館」には、滞在中に書いた小丘の繪が残っているにではないでしょうか。
なぜ、小丘にこだわっているかと云いますと、我が家で最初に癌で死亡したのが、小丘なのです。ただし、若死にした「学柳明圓沙門」も癌だったのかも知れませんが、当時はまだ医学的にもよく分からない状態ですから、除外しています。「小丘」は「原発不明の肺癌」と言われました。レントゲンで、左肺が全く見えないといいますか、肋膜に水が溜まった状態の写真になっていました。そうなる前の源が分からないというのです。
次回は「唯法徹心居士」です。私の父ですが、これがまた「肺癌」でした。
(追記 2017/6/28)
小丘の画友について、大物(?)を書き漏らしておりました。忘れていたわけではなく、私が生まれた時に、お祝いに頂いたという繪を探して、お名前を確認したかったのです。今朝やっとしまい場所を思い出しまして、確認出来ました。
『生田花朝』さんです。この方は、年齢的には、だいぶ上の世代でして、小丘にとっては、「大先輩」という感じだったのでしょう。小丘が昭和5年に帝展に初入選したときには、生田さんは10回目の入選をはたしておられます。頂いた色紙は、45才の時のものです。44才の時、帝展無審査ということになっておられます。晩年は「花朝女」という署名落款をされたそうですが、我が家にある色紙は「生田花朝」でした。お亡くなりになったのは、昭和53年ということですから、あの世では、小丘の方が先輩になりました。
2017年6月13日火曜日
捨ててこそ(7) 寿命に合わせて
木瓜爺、つくづく「幸せだなあー」と、運命をかみしめることにしました。
「捨ててこそ」などと気取っても、自分がいつまで生きるのか分からない内は、捨てる踏ん切りがつきません。寿命が自分で分かったら、整理も付けやすいのになあ・・・と、思っていたら、どうもそれが「ほぼ、見当がつく」状態になったらしいのです。
二ヶ月ほど前から、昔病んだことのある「十二指腸潰瘍」の時と似た軽い痛みを、「十二指腸」のあたりに感じ始め、糖尿病の薬を貰っている医者に「内視鏡」で覗いて貰いました。
検査結果は「異常なし」です。でも、抑えると、違和感は間違いなくあります。それで、エコーで見て貰うことにしました。すると、やはり、十二指腸の裏がわにおかしな影がある。ということになって、大きな病院に検査依頼。今度はCTスキャンという奴で、身体の輪切りをして貰いました。その結果、「膵臓ガンの疑いあり」 ということです。来週、さらに精密な検査を受けることになりました。どういうことになるか分かりませんが、この「膵臓ガン」というのは、発見が遅れる病だそうです。というのは、自覚症状になる「猛烈な吐き気」「食欲不振」「背中の痛み」・・・といった症状が出るのは、末期に近い時期らしいのです。木瓜爺の場合は、まだ「書かれているような症状」は、全くありません。なにかの間違いじゃないのかなあ? と、思っている位です。
しかし、この膵臓ガンというのは、十二指腸に包まれたような位置ですから、細胞検査も容易ではないらしい。精密検査で開腹なんて言われたら、どうしようかなあ???と、迷っています。
それはそれとして、このガンは、5年生存率が6%しかありません。つまり、自分の寿命が見えて来たのです。それが、冒頭の「幸せだなあー」になるわけです。とはいえ、多分、これから本当の「うろじウロウロ」が始まると思います。
そういえば、インターネットで「膵臓ガン」ってどういう病気だ?と調べましたら、翌日から、治療に関する広告が次々と画面に現れます。便利な世の中になったなあ・・・・でも、30年掛けていた「ガン保険」を止めて二年目に、そういう疑いが発生するというのは・・・やはり「ガン保険」は「ガン除けのお守り」だったのですねえ・・・・
さて、まず、何を捨てるかな? 里山用以外の登山案内書は不要でしょうね。今週はこれを捨てよう・・・・
「捨ててこそ」などと気取っても、自分がいつまで生きるのか分からない内は、捨てる踏ん切りがつきません。寿命が自分で分かったら、整理も付けやすいのになあ・・・と、思っていたら、どうもそれが「ほぼ、見当がつく」状態になったらしいのです。
二ヶ月ほど前から、昔病んだことのある「十二指腸潰瘍」の時と似た軽い痛みを、「十二指腸」のあたりに感じ始め、糖尿病の薬を貰っている医者に「内視鏡」で覗いて貰いました。
検査結果は「異常なし」です。でも、抑えると、違和感は間違いなくあります。それで、エコーで見て貰うことにしました。すると、やはり、十二指腸の裏がわにおかしな影がある。ということになって、大きな病院に検査依頼。今度はCTスキャンという奴で、身体の輪切りをして貰いました。その結果、「膵臓ガンの疑いあり」 ということです。来週、さらに精密な検査を受けることになりました。どういうことになるか分かりませんが、この「膵臓ガン」というのは、発見が遅れる病だそうです。というのは、自覚症状になる「猛烈な吐き気」「食欲不振」「背中の痛み」・・・といった症状が出るのは、末期に近い時期らしいのです。木瓜爺の場合は、まだ「書かれているような症状」は、全くありません。なにかの間違いじゃないのかなあ? と、思っている位です。
しかし、この膵臓ガンというのは、十二指腸に包まれたような位置ですから、細胞検査も容易ではないらしい。精密検査で開腹なんて言われたら、どうしようかなあ???と、迷っています。
それはそれとして、このガンは、5年生存率が6%しかありません。つまり、自分の寿命が見えて来たのです。それが、冒頭の「幸せだなあー」になるわけです。とはいえ、多分、これから本当の「うろじウロウロ」が始まると思います。
そういえば、インターネットで「膵臓ガン」ってどういう病気だ?と調べましたら、翌日から、治療に関する広告が次々と画面に現れます。便利な世の中になったなあ・・・・でも、30年掛けていた「ガン保険」を止めて二年目に、そういう疑いが発生するというのは・・・やはり「ガン保険」は「ガン除けのお守り」だったのですねえ・・・・
さて、まず、何を捨てるかな? 里山用以外の登山案内書は不要でしょうね。今週はこれを捨てよう・・・・
2017年6月10日土曜日
2017/6/10:My Family history 〔4〕 学柳明圓沙門 その3
もう一つの資料、「大阪現代人名辞典」に移ります。これは、大正2年の発行資料です。実はこの系統で、もう一つ新しいものが紛失してしまったようです。それには、学柳の長女、小丘が女流画家として紹介されていたと記憶しているのですが、残念です。この人名辞典の記述は、前回の蔵前校友録の記録と大差ありませんが、愛知県での活動に触れています。
『村岡学柳君 大阪府の人、田中政一の二男にして、明治七年四月三十日 京都烏丸高辻に生る。長じて後村岡天山の養子となり入てその姓を冒せり。幼少より繪畫々好みしが長ずるに及び、遂に畫を以て身を立てんと志し、今尾景年に師事し、専ら斯道を修めしが、後又た志を転じて図案家たらんとし東京工業学校図案撰科に入る。研修数年技大に進む。卒業の後、群馬県に赴き、物産地図案奨励のため、周く県下を遊歴せり。後愛知県勧業課の招聘に応じ、農商務省井手技師に随行し、大日本図案協会商議院審査員、京都図案会評議員となり、斯界に其の名を知らるるに至れり。従来各地展覧会博覧会等に作を出して江湖の称賛を博し、賞牌褒状を受けたること数回に及べり。曾って明治三十五年東京高島屋呉服店に在るの時、宮内省の下命に依り先帝陛下並びに皇太后陛下の御大礼服考案の光栄に浴せし事あり。その後 同店の大阪本店詰めとなり、その図案部主任として経営に任ずること十年余に及び氏しも大正二年一月辞して同店の顧問となり、傍ら図案の畫に応じつつあり。(大阪府豊能郡櫻井谷村大字南刀根山)』
「江湖の称賛」の意味を解説しないと、いけないかも知れませんね。「江湖」というのは、中国の「江西省」と「湖南省」、ちょっと狭く考えても「長江と洞庭湖」を意味して居ます。それが転じて、「世の中」「世間」というような「広範囲」を意味するようになりました。「広く世間から称讃を得た」という風に解釈して下さい。
「学柳明圓沙門」は、生涯何回引越をしたのか、木瓜爺直接調べたことがないのですが、父や母に聞いたところでは、戸籍の移動をたどるのが極めて困難だったそうです。戦災も絡んで(謄本の置かれていた役所が空襲などで焼けた)、相当苦労し、大阪で不動産業を営んでいた方にもたすけて頂いたようです。
私の記憶では、長女登貴こと「芳桂院 小丘大姉」は、東京の生まれだったように思います。つまり、高島屋東京店に勤めていた頃に結婚し、長女が誕生したのでしょう。この伯母の戒名に院号が付いていますが、是は、弟の「徹心居士」が、菩提寺の和尚さんに相談して付けた戒名です。伯母は、晩年、国分寺で「芳桂塾」という書道の塾を開いていましたので、それを記念したものです。また「小丘」というのは、画号です。木瓜爺が付けると「芳桂院 登貴小丘大姉」となっていたかもしれません。ちょっと簡略化したようです。
長男 唯矣こと「唯法徹心居士」は、大阪で生まれています。先ほどの資料によると、
大正二年には「櫻井」にいたようですね。
学柳はこの移動期間は、全て「借家」だったようです。大正二年に高島屋を辞めたあと、大正六年にまた「十合」に務めたことは、前回に書いております。櫻井では通勤も大変でしょうから、また大阪市内に舞い戻ったと考えられます。
正確なことは分かりませんが、おそらく昭和に入ってからでしょう。東住吉区田辺本町に、自宅を建てます。終の住まいとして建てたものでしょうが、この家は、地面が借り物でした。これは、当時としてはよくあった形です。ただ、それなりに考えたのだろうなと思うのは、玄関は別になっていますが、構造体としては、2軒の家を一つにしてありました。二世代住宅のはしりとして作ったのか、或いは遺族が家賃収入を暮らしのたすけに出来るように考えたのか・・・実際には、後者として役だっていました。
祖母の話ですと、オシャレだったそうですが、それがちょっと渋いのですね。着物を作る時、同じものを少なくとも二枚同時に仕立てるのだそうです。一枚を洗いに出しても、もう一枚のほうを着て出かける・・・つまり、他人には「いつでも同じ格好をしている」と思わせるのだそうです。
享年五十六才は、今だと若すぎますね。
学柳が死んで3年後、木瓜爺はこの家で生まれました。主屋の方の庭が広くて、大きな石榴の木が庭の中央にあり、井戸の回りには、イチジクの木が二本ありました。と、まあ、実が食べられた木のことはよく覚えています。
「学柳明圓沙門」の巻はこれで一応終了とします。つれあいは「元柳明美大姉」。学柳の戒名を頂いた時に、同時に頂いた戒名です。本名が「ゲン」で、通称が「美代子」であった祖母です。二つの戒名を一つの位牌に彫ると、「柳明」の一致に美しさを感じます。つけてくださった和尚さん、頭良いなあ・・・
2017年5月16日火曜日
2017/05/16: My Family history 〔3〕 学柳明圓沙門 その2
前回は 家伝(?)による「政之輔」の子供時代のことを書きました。疑問の一つが、中学も中退しなければならなかった彼が、どうして、蔵前に入れたのかという点です。托鉢をさせられていた「明圓」小僧は、頼み込んで「今尾景年」に弟子入りし、「学柳」という画号で、着物の下絵などを描き、生計を立てていました。 木瓜爺が自分自身の性格の一部が学柳のDNAによるものだと意識すると、おそらく学柳は下絵を描きながら、今の言葉でいえば、「標準化による生産性向上」というようなことを考え始めていたのだろうと思います。この辺のところを、資料として残っている「蔵前校友誌(大正15年9月30日発行)」の記述から読み取りたいと思います。写真の文字が小さくて読めないと思いますので、書き写します。
『村岡明圓君 三五選圖 京都十合呉服店意匠部 住所 大阪市天王寺区小宮町四〇
夫人 美代子
長女 登貴子 女流画家
長男 唯矣 天王寺中学在
趣味 写生旅行 謡曲
君は、明治七年四月 舊金沢藩士田中政一氏次男として京都に生まる。亡父は明治維新の際、急進派に属し、京都に出でて戦ひ、事平らげる後、京都烏丸にて呉服業を営む。
君は幼にして村岡家を襲ぎ、小学校卒業後愛知中学に入りしも家業の都合上半途退学し、芸術を以て身を立てんと欲し、京都今尾景年氏に師事して絵を習い、傍ら西陣織物の下絵を書く。当時の図案は多く画家の手になり、骨描淡彩にして配色の印にすぎず。実物製品には甚だ遠く無責任のもののみなれば、君が之を改良を計りつつありし折柄三〇年四月群馬県桐生の同業者有志に聘せられて織物作製に従事す。これ同地における斯業の矯矢なり。後同地の先覚者森山芳平氏、及び後藤定吉氏に依り故手島先生に紹介せられ、東京高等工業学校工業図案科選科に入る。これ図案選科の初なり。在学中成績優秀にして銀牌の賞を受く。
三十五年四月東京高島屋へ時の皇后陛下の大礼服のご下命ありし際、同店より再三井手教授に逼り来りし為同教授に選抜せられて同店に入る。爾来同店の為に専属工業家の団体高榮会を督して裾模様別染と筒糊を以て色写しを成功せしめる事を唱導し遂に完成せしむ。在勤十一年にして退店し後自営すること五ヶ年、大正六年二月より大阪十合呉服店に入店して意匠部を統括す。同店専属の京都あやめ会を督励して、無線有線並用、恒に図案と製品との味を調和せしむべく努力し毎月一回の研究会を開き製品に対して講評をなす。会員は之を楽しみとして聴くを待つの風あり。同地図案界の一権威たり。尚、君は日清日露の戦役に参加して功あり。(大正十四年)』
実務先行で、京都から群馬桐生に移り、図案業?今で云うと図案デザイナーを始め、そこで東京高等工業学校の先生を紹介され、今で云うと研究生的な形で、入学させていただいたのですね。そして、高島屋が昭憲皇太后の大礼服を受注したときに、教授の推薦で高島屋に送り込まれ、見事に仕上げたということです。国分寺の家に澄んでいた時、この時の大礼服を着られた皇后の写真と、頂いた勲章が仏壇の下の引き出しに入れてあって、祖母に話を聞いたことがあります。不思議なのは、この写真と勲章が、私に伝わっていません。 どこに行ってしまったのやら・・・
学柳の業績の一つに、着物につける「家紋」の整理統合があるそうです。家紋を集めた小冊子を作る手助けをし、これが「家紋のバイブル」として印刷発行されたようです。発行者は京都の有名な呉服店の市田さんですね。明治36年の発行になっていますから、高島屋時代でしょうか?
こうしてみると、「爺ちゃん」は偉かったのだなあ・・・と、つくづく感じます。図案家といっても、芸術的な要素以外に、「技術屋」としての合理性・緻密な感覚も優れていたのでしょう。インダストリアル・デザイナーのはしりだったのでしょう。
もう一つの資料、「大阪現代人名辞典」は、次回に。
『村岡明圓君 三五選圖 京都十合呉服店意匠部 住所 大阪市天王寺区小宮町四〇
夫人 美代子
長女 登貴子 女流画家
長男 唯矣 天王寺中学在
趣味 写生旅行 謡曲
君は、明治七年四月 舊金沢藩士田中政一氏次男として京都に生まる。亡父は明治維新の際、急進派に属し、京都に出でて戦ひ、事平らげる後、京都烏丸にて呉服業を営む。
君は幼にして村岡家を襲ぎ、小学校卒業後愛知中学に入りしも家業の都合上半途退学し、芸術を以て身を立てんと欲し、京都今尾景年氏に師事して絵を習い、傍ら西陣織物の下絵を書く。当時の図案は多く画家の手になり、骨描淡彩にして配色の印にすぎず。実物製品には甚だ遠く無責任のもののみなれば、君が之を改良を計りつつありし折柄三〇年四月群馬県桐生の同業者有志に聘せられて織物作製に従事す。これ同地における斯業の矯矢なり。後同地の先覚者森山芳平氏、及び後藤定吉氏に依り故手島先生に紹介せられ、東京高等工業学校工業図案科選科に入る。これ図案選科の初なり。在学中成績優秀にして銀牌の賞を受く。
三十五年四月東京高島屋へ時の皇后陛下の大礼服のご下命ありし際、同店より再三井手教授に逼り来りし為同教授に選抜せられて同店に入る。爾来同店の為に専属工業家の団体高榮会を督して裾模様別染と筒糊を以て色写しを成功せしめる事を唱導し遂に完成せしむ。在勤十一年にして退店し後自営すること五ヶ年、大正六年二月より大阪十合呉服店に入店して意匠部を統括す。同店専属の京都あやめ会を督励して、無線有線並用、恒に図案と製品との味を調和せしむべく努力し毎月一回の研究会を開き製品に対して講評をなす。会員は之を楽しみとして聴くを待つの風あり。同地図案界の一権威たり。尚、君は日清日露の戦役に参加して功あり。(大正十四年)』
実務先行で、京都から群馬桐生に移り、図案業?今で云うと図案デザイナーを始め、そこで東京高等工業学校の先生を紹介され、今で云うと研究生的な形で、入学させていただいたのですね。そして、高島屋が昭憲皇太后の大礼服を受注したときに、教授の推薦で高島屋に送り込まれ、見事に仕上げたということです。国分寺の家に澄んでいた時、この時の大礼服を着られた皇后の写真と、頂いた勲章が仏壇の下の引き出しに入れてあって、祖母に話を聞いたことがあります。不思議なのは、この写真と勲章が、私に伝わっていません。 どこに行ってしまったのやら・・・
学柳の業績の一つに、着物につける「家紋」の整理統合があるそうです。家紋を集めた小冊子を作る手助けをし、これが「家紋のバイブル」として印刷発行されたようです。発行者は京都の有名な呉服店の市田さんですね。明治36年の発行になっていますから、高島屋時代でしょうか?こうしてみると、「爺ちゃん」は偉かったのだなあ・・・と、つくづく感じます。図案家といっても、芸術的な要素以外に、「技術屋」としての合理性・緻密な感覚も優れていたのでしょう。インダストリアル・デザイナーのはしりだったのでしょう。
もう一つの資料、「大阪現代人名辞典」は、次回に。
2017年5月1日月曜日
2017/05/01: My Family history 〔2〕 学柳明圓沙門 その1
三月のはじめに、始祖? 天山禅師大和尚 の事を書いてから、あっという間に2ヶ月過ぎました。今日から書く「学柳明圓沙門」は、我が家の初代になります。戒名に「沙門」とあるのは、嘗て僧籍にあったことを意味して居ます。彼は、天山禅師の養子になり出家しますが、故あって、方向転換。俗世間で生きます。その時、天山禅師が使っていた「村岡」姓を名乗ったと思われます。
我が家系で、世間に知られた功績を残したのは、「此の人」です。以降は尻すぼみ(?)のようです。「此の人」などと他人行儀なことを書いていますが、木瓜爺の祖父に当たります。ただ、木瓜爺がこの世に生まれた時には、すでに他界しておりましたので、写真でしか逢ったことがありません。戒名の「学柳」は画号です。本名は「明圓」。これは、僧籍にあった時の名前だろうと思いますが、戸籍はこれで作られています。それ以前は「幼名」として「政之助」。 ただ、木瓜爺は、「学柳おじいちゃん」と聞かされていましたので、その呼び方が最も馴染んでいます。

「明圓」については、彼が卒業した「蔵前高専」、つまり現在の東京工業大学の前身である学校の「蔵前校友誌」と、「大阪現代人名辞書」に公表された記録があります。また、彼が手がけた作品は、東京藝術大学の美術館に保存されています。
「明圓」の職業は、「図案家」、デザイナーなのです。
これらの文書は、「明圓」が名を成して以降のことであって、幼少の頃については、我が家の言い伝え、メモ書きなどでしか分かりません。通常最も頼りになるはずの、戸籍謄本が謎をはらんでいるという状態なのです。
今回は、まず我が家にある「伝記(?)」をたどり、次回には、前述の二文書の記述をご紹介したいと思います。この「伝記」は、木瓜爺の母が、亡くなる少し前に、いろいろ思い出して書き残してくれたノートに記されていました。誤りと思われる部分も有りますが、とりあえず原文のまま・・・前述の二文書から写したのではないかと思われる記述が多くの部分を占めています。
『村岡学柳の経歴 明治7年4月30日 金沢藩士田中政一の次男として京都烏山高辻に生まる。 父母を早く亡くし、五才の時 村岡天山の養子となり 仏門に入り明圓となる。 小学校卒業後 愛知中学に入学 家事の都合上途中退学し 僧としての修行する。 京都市内を托鉢しながら、今尾景年氏に師事して絵を学び 画号を学柳となる 西陣織物の下絵を描く。 書画を以て身を立てんと志し 東京工業学校 図案専科に入る 研鑽数年 技大いに進む 在学中成績優秀にして 銀牌の賞を受ける。
卒業の後 群馬県に赴き 物産地 図案奨励の為 周く県下を遊歴す。後、愛知県勧業課の招聘に応じ、農商務省 井手技師に随行し 大日本図案協会 商議員審査員となり斯界に其の名を知られる。 各地展覧会博覧会等に作を出し、江湖の称讃を博し 賞牌褒状を受ける事数回。
明治三十五年 東京高島屋呉服店に在る時 宮内省の下命に依り 明治天皇 並びに皇太后陛下の御大礼服考案の光栄に浴せし事あり
日清日露の戦役に参加
其の後、高島屋本店詰となり 図案部主任として経営に任ずる事十年余 明治四十五年 大正二年一月退店し同店の顧問となり傍ら自営する 大正六年二月より 大阪十合呉服店に入店して意匠部を統括す 昭和六年九月五日 死亡』
明圓の父は金沢藩士となっていますが、どうも維新の頃、金沢を脱藩して攘夷に騒動に加わった人々の一人だったのではないかと思われます。しかし、本当に「田中政一」であったのかどうか、証拠が見つけれないのです。「父母を早く亡くし」の部分の詳細が全く分からないのです。なお、政一の二男と母は書いていますが、政之助という名前から見て長男だったのではないかと思います。後で出てきますが、入籍した先の扱いが二男なので、書き違えたのではないでしょうか。
昭和六年(1931)に死んだ明圓は享年56才と伝えられています。満年令か数え年かハッキリしませんが、昭和初期のことですから数え年でしょう。そうすると、生まれたのは、明治9年(1876)くらいになりそうです。なんかおかしい? 木瓜爺の父「唯法徹心居士」が、相続の頃に戸籍謄本を取り寄せて、主要事項を書き写したメモが残されています。それには、こう書かれています。『村岡明圓(政之助) 明治四年四月三十日生 明治十六年一月二十日 京都府下京区東松屋町 田中政七 二男入籍 明治二十三年三月二十八日改名』
これが正しいとすれば、死んだのは60才ということになります。 父の写し違いかも知れません。そしてこのメモの重要問題が、明治十六年(1883)田中政七 二男に入籍 という記述。つまり、それまで、政之助には戸籍がなかったことになります。謎です。戸籍法が始まったのは、明治4年頃でしょう。実際に全ての戸籍が整えられたのは数年後だろうと思いますから、宙ぶらりの人がいても不思議ではありませんが、それにしても、明治16年入籍というのは不可解。これは、恐らく中学あたりに入学する為に、戸籍を作る必要を生じ、田中政一の弟、政七に入籍して貰ったのではないでしょうか?
何らかの理由で、父母を殆ど同時に失った幼児を、天山が拾い、育てていたような気がします。そして、小学校に入る時には養子の形をとり、親戚があることが分かって、あらためて、戸籍を作らせた・・・というような、経緯が隠れているように思われます。
「家事の都合上途中退学」というのは、天山が住職をする寺を変わったというような事情がありそうです。明圓は家事として托鉢にまわらされ、それをサボって(?)、画の勉強をしたというようなことを、祖母に聞いた事があります。托鉢にまわった家が画家だったので、ちょくちょく見に行き、弟子にして貰ったのでしょうか?
「学柳」の署名のある画は、手元に何枚か残されています。今、床の間には、端午の節句用の掛軸「兜」が掛かっています。右の絵は、家紋をいれた袱紗に学柳が書いたものです。
師の「今尾景年」は、著名な画家です。『日本画家。京都生。名は永勧、字は子裕、景年は号、別号に聊自楽居。初め浮世絵師梅川東居に師事、のち鈴木百年に四条円山派を学ぶ。花鳥画を得意とし国内外の博覧会で多数受賞するなど高い評価を得た。帝室技芸員・文展審査員・帝国美術院会員。大正13年(1924)歿、80才。 』 と、コトバンクにも出て来ました。
続きは何時かけるかな?
我が家系で、世間に知られた功績を残したのは、「此の人」です。以降は尻すぼみ(?)のようです。「此の人」などと他人行儀なことを書いていますが、木瓜爺の祖父に当たります。ただ、木瓜爺がこの世に生まれた時には、すでに他界しておりましたので、写真でしか逢ったことがありません。戒名の「学柳」は画号です。本名は「明圓」。これは、僧籍にあった時の名前だろうと思いますが、戸籍はこれで作られています。それ以前は「幼名」として「政之助」。 ただ、木瓜爺は、「学柳おじいちゃん」と聞かされていましたので、その呼び方が最も馴染んでいます。
「明圓」については、彼が卒業した「蔵前高専」、つまり現在の東京工業大学の前身である学校の「蔵前校友誌」と、「大阪現代人名辞書」に公表された記録があります。また、彼が手がけた作品は、東京藝術大学の美術館に保存されています。「明圓」の職業は、「図案家」、デザイナーなのです。
これらの文書は、「明圓」が名を成して以降のことであって、幼少の頃については、我が家の言い伝え、メモ書きなどでしか分かりません。通常最も頼りになるはずの、戸籍謄本が謎をはらんでいるという状態なのです。
今回は、まず我が家にある「伝記(?)」をたどり、次回には、前述の二文書の記述をご紹介したいと思います。この「伝記」は、木瓜爺の母が、亡くなる少し前に、いろいろ思い出して書き残してくれたノートに記されていました。誤りと思われる部分も有りますが、とりあえず原文のまま・・・前述の二文書から写したのではないかと思われる記述が多くの部分を占めています。
『村岡学柳の経歴 明治7年4月30日 金沢藩士田中政一の次男として京都烏山高辻に生まる。 父母を早く亡くし、五才の時 村岡天山の養子となり 仏門に入り明圓となる。 小学校卒業後 愛知中学に入学 家事の都合上途中退学し 僧としての修行する。 京都市内を托鉢しながら、今尾景年氏に師事して絵を学び 画号を学柳となる 西陣織物の下絵を描く。 書画を以て身を立てんと志し 東京工業学校 図案専科に入る 研鑽数年 技大いに進む 在学中成績優秀にして 銀牌の賞を受ける。
卒業の後 群馬県に赴き 物産地 図案奨励の為 周く県下を遊歴す。後、愛知県勧業課の招聘に応じ、農商務省 井手技師に随行し 大日本図案協会 商議員審査員となり斯界に其の名を知られる。 各地展覧会博覧会等に作を出し、江湖の称讃を博し 賞牌褒状を受ける事数回。
明治三十五年 東京高島屋呉服店に在る時 宮内省の下命に依り 明治天皇 並びに皇太后陛下の御大礼服考案の光栄に浴せし事あり
日清日露の戦役に参加
其の後、高島屋本店詰となり 図案部主任として経営に任ずる事十年余 明治四十五年 大正二年一月退店し同店の顧問となり傍ら自営する 大正六年二月より 大阪十合呉服店に入店して意匠部を統括す 昭和六年九月五日 死亡』
明圓の父は金沢藩士となっていますが、どうも維新の頃、金沢を脱藩して攘夷に騒動に加わった人々の一人だったのではないかと思われます。しかし、本当に「田中政一」であったのかどうか、証拠が見つけれないのです。「父母を早く亡くし」の部分の詳細が全く分からないのです。なお、政一の二男と母は書いていますが、政之助という名前から見て長男だったのではないかと思います。後で出てきますが、入籍した先の扱いが二男なので、書き違えたのではないでしょうか。
昭和六年(1931)に死んだ明圓は享年56才と伝えられています。満年令か数え年かハッキリしませんが、昭和初期のことですから数え年でしょう。そうすると、生まれたのは、明治9年(1876)くらいになりそうです。なんかおかしい? 木瓜爺の父「唯法徹心居士」が、相続の頃に戸籍謄本を取り寄せて、主要事項を書き写したメモが残されています。それには、こう書かれています。『村岡明圓(政之助) 明治四年四月三十日生 明治十六年一月二十日 京都府下京区東松屋町 田中政七 二男入籍 明治二十三年三月二十八日改名』
これが正しいとすれば、死んだのは60才ということになります。 父の写し違いかも知れません。そしてこのメモの重要問題が、明治十六年(1883)田中政七 二男に入籍 という記述。つまり、それまで、政之助には戸籍がなかったことになります。謎です。戸籍法が始まったのは、明治4年頃でしょう。実際に全ての戸籍が整えられたのは数年後だろうと思いますから、宙ぶらりの人がいても不思議ではありませんが、それにしても、明治16年入籍というのは不可解。これは、恐らく中学あたりに入学する為に、戸籍を作る必要を生じ、田中政一の弟、政七に入籍して貰ったのではないでしょうか?
何らかの理由で、父母を殆ど同時に失った幼児を、天山が拾い、育てていたような気がします。そして、小学校に入る時には養子の形をとり、親戚があることが分かって、あらためて、戸籍を作らせた・・・というような、経緯が隠れているように思われます。
「家事の都合上途中退学」というのは、天山が住職をする寺を変わったというような事情がありそうです。明圓は家事として托鉢にまわらされ、それをサボって(?)、画の勉強をしたというようなことを、祖母に聞いた事があります。托鉢にまわった家が画家だったので、ちょくちょく見に行き、弟子にして貰ったのでしょうか?
「学柳」の署名のある画は、手元に何枚か残されています。今、床の間には、端午の節句用の掛軸「兜」が掛かっています。右の絵は、家紋をいれた袱紗に学柳が書いたものです。
師の「今尾景年」は、著名な画家です。『日本画家。京都生。名は永勧、字は子裕、景年は号、別号に聊自楽居。初め浮世絵師梅川東居に師事、のち鈴木百年に四条円山派を学ぶ。花鳥画を得意とし国内外の博覧会で多数受賞するなど高い評価を得た。帝室技芸員・文展審査員・帝国美術院会員。大正13年(1924)歿、80才。 』 と、コトバンクにも出て来ました。
続きは何時かけるかな?
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