書棚を整理していた妻が、「これ捨てても良い?」と「ことわざ格言集」を持って来ました。探しても見つからなかった本です。いつの間にか、置いた書棚が別の場所になっていたのでした。なぜ、それを探していたかというと、「空也上人」の、「捨ててこそ」について書かれていた筈だからでした。早速調べて分かったのは、「空也上人の和歌」が、あやしげな格言の元兇であるということでした。それは、『山川の末に流るる橡殻(とちがら)も 身をすててこそ 浮かぶ瀬もあれ』 です。これは、武道の「死中に活を得る」という言葉と同じ意味で言ったということになっているようです。
しかし、以前に、こんな記事を見ました。「一遍上人」の研究をされている方のブログですが、『一遍上人語録』の現代語訳だそうです。こちらの、「捨ててこそ」の方が、本物(?)なのでしょう。
『むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかが申(もうす)べきやと問ければ、「捨(すて)てこそ」とばかりにて、なにとも仰(おおせ)られずと、西行法師の撰集抄に載(のせ)られたり。是誠に金言なり。
念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨(すて)、善悪の境界をもすて、貴賎高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟をもすて、一切の事をすてて申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤(もっとも)かなひ候へ。かやうに打あげ打あげ(注:高く高く)となふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界、皆浄土なり。外に求(もとむ)べからず、厭(いとう)べからず。
よろづ生(いき)としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預(あずかる)にあらず。またかくのごとく愚老が申事も意得(こころえ)にくく候はば、意得にくきにまかせて愚老が申事をも打捨(うちすて)、何ともかともあてがひはからずして、本願に任(まかせ)て念仏したまふべし。
念仏は安心して申も、安心せずして申も、他力超世の本願にたがふ事なし。弥陀の本願に欠(かけ)たる事もなく、あまれることもなし。此外にさのみ何事をか用心して申べき。ただ愚なる者の心に立かへりて念仏したまふべし。南無阿弥陀仏』
木瓜爺が思った通り、他力本願なればこその「捨ててこそ」ですねえ。「阿弥陀仏」を信じない限り、すべてを捨てることなど無理です。一遍上人には、残される家族もありません。もともと、出家という形で家族を捨ててしまっているのです。
凡人には無理だと分かれば、「捨てるものもあれば、残すものもある」と、割り切りましょう。どうせ、死ぬときは、なにもかもこの世に捨てて行くのです。ただ、残すものというのは、遺族の負担になると思うので、出来るだけ少なくしておきましょう。
木瓜爺の趣味、いろいろ有ったのですが、捨ててしまったものもあります。捨てざるを得なかったと云うべきかな? 若い頃は、履歴書に格好良く「趣味 音楽鑑賞」などと書いて、クラシックは少なかったのですが、ジャズ、ポピュラー・ソング、ウエスタンなどを楽しんでいました。だいたい其の頃は、音に関する仕事でしたから、耳を酷使していました。ところが、ある帯域の音が聞こえなくなってしまうというタイプの「職業性難聴」になったのです。それまでの仕事が出来なくなり、耳による評価ではなく、視覚化・数値化された状態で考える仕事に移って行きます。
そこまではまだ良かったのですが、ある年の冬、風邪を引いて、高熱を出し、抗生物質の薬を飲みながら何日か寝て過ごしました。 それがなおった日に、起き上がって、久しぶりにステレオを聞こうとしたら、片方のチャンネルが音が出ない・・・スピーカーが壊れたのかと思ったら、なんと、耳の方が壊れていたのです。耳鼻科に治療に通いましたが、突発性難聴ということで、回復の兆しもなく、右の耳が殆ど聞こえなくなりました。そうなってしまうと、もう音楽を聴く気にもなりません。「趣味 音楽鑑賞」などと書けなくなってしまいました。オーディオの装置も、殆ど捨てました。現在残っているのは、レコード・CD・カセット何でも聞ける小さなマルチ・プレーヤー1台です。「般若心経」のテープなどが演奏?されることがあります。
次は「趣味 写真」のほうの話です。 つい先頃なのですが、長いこと使っていたNIKONのD300というカメラが故障してしまったのです。修理して使うつもりでいたのですが、NIKON では、販売終了後7年は部品を保存しているけれど、それ以降は保証出来ないのだそうです。試しに、修理依頼をしてみたのですが、診断はしてくれたらしく、「**基板が不具合」ですが、部品がないため修理不能です と戻って来ました。修理の手段としては、独立したカメラ修理工場に依頼するという方法が残されています。こういう工場では、廃棄状態になったカメラを分解して、修理用の部品をストックしたり、自作できるバーツは同じようなものを工作機械を使って作ったりして、可能な限り対応してくれます。ですから、問い合わせてみる意味は残っています。
しかし、あっさり、「形ある物は滅す」と、捨ててしまう考え方もあります。また、欲しければ、中古品を購入する事もできます。修理代と中古品の価格は、ほぼ同額、若しくは修理代のほうが少し高くなるでしょう。
長い間の相棒ですから、修理出来るものならしてやりたい。これが、日本人の考えでしょう。でも、直してどうなる? 別に今までより便利にはなりません。木瓜爺迷っている内に、いっそAPSーCサイズのデジ1眼そのものを捨てたらどうなる? と、考え始めました。フルサイズのデジ1眼D700はまだ健在です。ただ 、使用年数からいうと、やがて、同じような運命をたどることになるでしょう。それと、1台では心許ないという感じがあります。そう考えると、もっと新しい機械を補充したいという欲も出て来ます。
コンパクト・カメラは何台かありますから、写すだけなら、新しいものの必要はありません。でも、「もうちょっと高品質の写真を写したいという欲」が出ると、「新しい機械 という物欲」に育ってしまいます。この写真など、コンパクト・カメラでは撮せませんからね・・・担当したのは、壊れてしまったD300 です。
いやはや、やっかいなのは「欲」ですね。・・・・ まさに「うろじウロウロ」です。
文字だけ2500字・・・読むのに疲れますね。目休めの写真を入れておきましょう。
今日のブログは、Open live writer から投稿出来ませんでした。 理由はこれから調べます。
木瓜爺と云う名前で、”Wordpress.com” に写真ブログを書き続けてきましたが、そろそろ「終活」を始めないといけないようです。とはいえ、まだまだ「この世」に未練があるらしく、なかなか「捨ててこそ」の心境にはなれません。「雨漏路(うろじ)」を迂路迂路しております。 新しくBlogger を使用させていただき、このあたりの迷走ぶりを記録してみようと思っております。
2017年2月11日土曜日
2017年2月6日月曜日
test投稿: OpenLiveWriter からの投稿テストです
いずれ、「木瓜爺撮歩」のシリーズをこちらに書くことになるだろうと思い、従来とあまり変わらぬスタイルで投稿出来るかどうかのテストをしております。
テストが終わりましたら、削除の予定です。
文章と写真が混在しますので、いくつかのレイアウトを作って試しておきます。まず画面の右側に写真がある形を作ります。
昨日歩いた昭和公園の池にいた水鳥から・・・画像サイズは、マウスで適当に拡大しています。
時々行う2枚並べの形を作ります。
WRITER上では上手く並んでいますが、投稿したときどうなるか・・・・
とりあえずこの形で投稿して見ます。
下書き編集の状態では、写真の大きさが変化しています。これは標準サイズになっているのが? そのため、レイアウトがみだれました。写真と写真の間に文字列が入り込みました。 でも読めないほどではありません。
これで、公開してみます。
公開した画面は、元の投稿画面のレイアウトを保ちました。編集時点の画面の違いに慣れる必要はありますが、ナントカやれそうです。 めでたしめでたし です。・・・・で、すててこそ(5)を投稿したら、受け付けてくれません。
文字数の問題か、画像の大きさなのか? ウロウロしてしまいます。
テストが終わりましたら、削除の予定です。
文章と写真が混在しますので、いくつかのレイアウトを作って試しておきます。まず画面の右側に写真がある形を作ります。
昨日歩いた昭和公園の池にいた水鳥から・・・画像サイズは、マウスで適当に拡大しています。
時々行う2枚並べの形を作ります。
WRITER上では上手く並んでいますが、投稿したときどうなるか・・・・
とりあえずこの形で投稿して見ます。
下書き編集の状態では、写真の大きさが変化しています。これは標準サイズになっているのが? そのため、レイアウトがみだれました。写真と写真の間に文字列が入り込みました。 でも読めないほどではありません。
これで、公開してみます。
公開した画面は、元の投稿画面のレイアウトを保ちました。編集時点の画面の違いに慣れる必要はありますが、ナントカやれそうです。 めでたしめでたし です。・・・・で、すててこそ(5)を投稿したら、受け付けてくれません。
文字数の問題か、画像の大きさなのか? ウロウロしてしまいます。
2017年2月2日木曜日
捨ててこそ(4)
「実行有るのみ」と、まず始めたのは、デジタルカメラを使い始めたころ作っていたインデックス・ファイルの整理です。フィルム時代の「コンタクト・プリント」の習慣が残っていましたから、全部の画像を一覧形式で印刷し、整理番号をタイトルなどを書き込んで、バインダーファイルに綴じていたのです。最初の頃は、一回カメラを使っても、一枚の印刷で済んでいたのですが、デジタルはフィルムと違って沢山写せるのだ・・・と、段々一回のショット数が増えて行きました。40カットを1枚に納めて10頁などということが起こるようになり、KING JIMの厚さ90mm程有るファイルが並びだし、書棚を占領してしまいました。この方法は駄目だなあと、いつしか中止したのですが、これをまず、半分に減らそうと、1回の撮影のプリントを1枚だけ残して、ほかは捨てるという作業を始めたのですが・・・「おう、これは孫を連れて**へ出かけた時だなあ・・・」なんて思ってしまうと、ここに写っているのは可愛いな・・・この頁は残しておくか・・・なんてことになりまして、ちっとも減らないのです。
捨てるためには、感情を捨てないといけないらしい・・・
昔の研究資料・レポートの控えなども、もういらない筈なのですが、うっかり読み始めると、この時苦労したなあ・・・などと、捨てる気力がなえて来ます。 純粋の価値以外の思い出的なものを捨てるということがなかなか出来ないのですね、 というわけで、木瓜爺 苦闘中です。まだ悟れません。
冬の間に片付けて、などと思っていたのに、もう梅の花が咲き出しました。
捨てるためには、感情を捨てないといけないらしい・・・
昔の研究資料・レポートの控えなども、もういらない筈なのですが、うっかり読み始めると、この時苦労したなあ・・・などと、捨てる気力がなえて来ます。 純粋の価値以外の思い出的なものを捨てるということがなかなか出来ないのですね、 というわけで、木瓜爺 苦闘中です。まだ悟れません。
冬の間に片付けて、などと思っていたのに、もう梅の花が咲き出しました。
2017年1月21日土曜日
捨ててこそ(3)
「物を捨てられない族」もいます。 幼いときに、大切にしていた物を大人(多分家族)に捨てられてしまって悲しかったということのトラウマとして、何でも抱え込んでしまうという状態の人も多いそうです。我々年寄り世代では、太平洋戦争から敗戦後の「なにもない生活」の経験から、何でも「また使うことがあるかも知れない」、「捨てるのはもったいない」と、しまいこんでしまうクセが付いています。
木瓜爺も、使い古したファイルを、「また使う日もあるだろう」と段ボール箱に入れてあるようです。しかし、そのことを忘れて、新しいファイルやホルダーを買ってきてしまうのです。
先日、そういう段ボール箱を見つけて、処分しようと思いました。ところが、ゴミとして出すには、分解して、紙/金具/プラスチック を別々に出さねばならないということなので、この分解作業が大変・・明日にしよう・・・と、のびのびになり、また忘れてしまいました。
収入が少ない時代に子育てをしてきた木瓜爺にはよく理解出来ないのは、十分、物を持っているのに、同じ様な物を追加購入する世代があるようですね。ネット通販がそれを助長しているという説もあります。衝動買いを重ねて、置き場がなくなって、新品ゴミ屋敷になるという不思議な世の中だそうです。「物欲」ではなくて、「買う」という行動欲なのでしょうか?・・・捨てる必要があるのは「欲」だというお話は、また次の機会として・・・
昔頂いた年賀状をかたづけるのに、全部シュレッダーに掛けないといけない(個人情報保護)ということで、これも延期。使っていたシュレッダーが摩耗故障状態になったので、仕方なく新しいのを購入したのですが、『壊れたシュレッダーを「燃えないゴミ」として出せるのは、いつになる?』
昔は、年賀状とかアルバムの写真とかいうものは、庭の片隅で燃して処分していました。各家庭には、小さな焼却炉があったのですが、ダイオキシンが発生するとかで、強制的に撤去されてしまったのです。焼却が出来なくなってから、家の中にゴミが溜まりだしたように思えます。
まあ、こういうものは、面倒がらずに、少しずつゴミ収集に出して行けばよいのでしょう。解決策は「実行あるのみ」。
最近困るなあ、と 思うのは、デジタル遺産 です。早い話が、PCの中の情報。これは、生きている間どんどん溜まって行きます。捨てると生きて行くのに困るものもあります。死んでしまうと、他人には扱えないものも出て来ます。・・・どうすりゃ良いのだ? ・・・また考えます。
木瓜爺も、使い古したファイルを、「また使う日もあるだろう」と段ボール箱に入れてあるようです。しかし、そのことを忘れて、新しいファイルやホルダーを買ってきてしまうのです。
先日、そういう段ボール箱を見つけて、処分しようと思いました。ところが、ゴミとして出すには、分解して、紙/金具/プラスチック を別々に出さねばならないということなので、この分解作業が大変・・明日にしよう・・・と、のびのびになり、また忘れてしまいました。
収入が少ない時代に子育てをしてきた木瓜爺にはよく理解出来ないのは、十分、物を持っているのに、同じ様な物を追加購入する世代があるようですね。ネット通販がそれを助長しているという説もあります。衝動買いを重ねて、置き場がなくなって、新品ゴミ屋敷になるという不思議な世の中だそうです。「物欲」ではなくて、「買う」という行動欲なのでしょうか?・・・捨てる必要があるのは「欲」だというお話は、また次の機会として・・・
昔頂いた年賀状をかたづけるのに、全部シュレッダーに掛けないといけない(個人情報保護)ということで、これも延期。使っていたシュレッダーが摩耗故障状態になったので、仕方なく新しいのを購入したのですが、『壊れたシュレッダーを「燃えないゴミ」として出せるのは、いつになる?』
昔は、年賀状とかアルバムの写真とかいうものは、庭の片隅で燃して処分していました。各家庭には、小さな焼却炉があったのですが、ダイオキシンが発生するとかで、強制的に撤去されてしまったのです。焼却が出来なくなってから、家の中にゴミが溜まりだしたように思えます。
まあ、こういうものは、面倒がらずに、少しずつゴミ収集に出して行けばよいのでしょう。解決策は「実行あるのみ」。
最近困るなあ、と 思うのは、デジタル遺産 です。早い話が、PCの中の情報。これは、生きている間どんどん溜まって行きます。捨てると生きて行くのに困るものもあります。死んでしまうと、他人には扱えないものも出て来ます。・・・どうすりゃ良いのだ? ・・・また考えます。
2017年1月20日金曜日
ボケのはじまり(1)
「捨ててこそ」 の 方を書かないといけないのですが、今日我が身に起こった現象を書いておくことにしました。多分、これは「徘徊状態」が始まる前兆だと思うのです。
カメラ屋に、D300をオーバーホール依頼しようと出かけた時の事です。いつもは電車の「下りは最前部」、「上りは最後部」に近い場所に乗るくせがあるのですが、この日は下車駅の改札に近い中央部に乗るべく、ホームの中程のベンチに座りました。
手元の手帳を眺めていて、ふっと顔を上げたとき、自分が上り側ホームにいるのか、下り側ホームにいるのか、分からなくなってしまったのです。
分からなくなった最大の理由は、この日「太陽」が出ていなかったのです。普通ですと、意識しなくても日射しのある方向で自分がどちらを向いているか判断しているようです。
今日のように曇った日は、コンパスを持って外出しないといけないのかなあ・・・
同様の状態は、地下鉄でもおきそうですね。夜道も危険です。 徘徊予備軍としては、留意しましょう。
カメラ屋に、D300をオーバーホール依頼しようと出かけた時の事です。いつもは電車の「下りは最前部」、「上りは最後部」に近い場所に乗るくせがあるのですが、この日は下車駅の改札に近い中央部に乗るべく、ホームの中程のベンチに座りました。
手元の手帳を眺めていて、ふっと顔を上げたとき、自分が上り側ホームにいるのか、下り側ホームにいるのか、分からなくなってしまったのです。
分からなくなった最大の理由は、この日「太陽」が出ていなかったのです。普通ですと、意識しなくても日射しのある方向で自分がどちらを向いているか判断しているようです。
今日のように曇った日は、コンパスを持って外出しないといけないのかなあ・・・
同様の状態は、地下鉄でもおきそうですね。夜道も危険です。 徘徊予備軍としては、留意しましょう。
2017年1月14日土曜日
捨ててこそ(2)
残された「遺物」で、始末の悪い物というと、「趣味」に関するものでしょう。これが、「お宝」と呼べるようなもの、例えば「骨董品」というような価値があるものなら、専門家にたのんで処分ということも出来るでしょうが、そうでないと目をつぶって全部廃棄になってしまうのでしょう。他人に価値が分からないものの一つに、書物があります。
木瓜爺も終活作業の開始に当たって、「趣味に係わる書物」の処分を考えました。木瓜爺の趣味の一つに「将棋」があります。これは、小学生になるころに教わり、高校生くらいから、本格的に書物による自習をし始めています。大きな買い物はしていませんが、それでも500冊くらいの蔵書になっていました。
これは、捨てておかないと遺族が困るだろう・・・中には、今では入手困難な資料もあるし、自分で古書専門店に引き取ってもらうことにしよう・・・と、考えました。ただ、一方でこんな考えも出て来ます。「身体が動かなくなって来た時に、せめて頭の体操をするツールを手元に残して置く方が良いのじゃないかな?」
散々迷ったのですが、兎に角「蔵書リスト」を作りました。購入金額(書物の定価)を計算してみると、思っていたよりも少額でした。これは、昔の本は小さい金額ですから、自然な結果です。次に
実際に売られている古書の価格を調べてみました。それから計算すると、半値とみても、五万円くらいにはなるだろうと思えました。しかし、作ったリストを、専門店に送り込んで見たところ、「最近は、古書も売れません。全部で、一万円程度なら引き取れます」という返事。ただし、送料は、着払いでよいということでした。 仕方がないなあ・・・著者からサインを頂いた記念品的価値のあるものと、傷んでしまって商品価値を著しく減じているものを手元に残し、段ボール箱数個を、送り出しました。 小さな書棚一つが減りました。外のジャンルの書物は、まだまだ残っています。
この例でよく分かったのは、自分の集めた書物などは、自分で考えるほど価値がないものであるということです。本当に価値のある「希少本」などは、インターネット・オークションなどで評価して貰うのも一法かも知れません。
木瓜爺も終活作業の開始に当たって、「趣味に係わる書物」の処分を考えました。木瓜爺の趣味の一つに「将棋」があります。これは、小学生になるころに教わり、高校生くらいから、本格的に書物による自習をし始めています。大きな買い物はしていませんが、それでも500冊くらいの蔵書になっていました。
これは、捨てておかないと遺族が困るだろう・・・中には、今では入手困難な資料もあるし、自分で古書専門店に引き取ってもらうことにしよう・・・と、考えました。ただ、一方でこんな考えも出て来ます。「身体が動かなくなって来た時に、せめて頭の体操をするツールを手元に残して置く方が良いのじゃないかな?」
散々迷ったのですが、兎に角「蔵書リスト」を作りました。購入金額(書物の定価)を計算してみると、思っていたよりも少額でした。これは、昔の本は小さい金額ですから、自然な結果です。次に
実際に売られている古書の価格を調べてみました。それから計算すると、半値とみても、五万円くらいにはなるだろうと思えました。しかし、作ったリストを、専門店に送り込んで見たところ、「最近は、古書も売れません。全部で、一万円程度なら引き取れます」という返事。ただし、送料は、着払いでよいということでした。 仕方がないなあ・・・著者からサインを頂いた記念品的価値のあるものと、傷んでしまって商品価値を著しく減じているものを手元に残し、段ボール箱数個を、送り出しました。 小さな書棚一つが減りました。外のジャンルの書物は、まだまだ残っています。
この例でよく分かったのは、自分の集めた書物などは、自分で考えるほど価値がないものであるということです。本当に価値のある「希少本」などは、インターネット・オークションなどで評価して貰うのも一法かも知れません。
2017年1月11日水曜日
捨ててこそ(1)
年老いた家族が死にますと、残されたものは後片付けが大変です。故人が大切にしていたものが、二束三文にしかならないということもしばしば、リサイクルショップが引き取ってくれないから結局有料のゴミ処分になってしまったという話をよく聞きます。死ぬまでに自分で出来るだけ片づけて逝け、というのが終活の大眼目らしいですね。
しかし、「言うは易く行うは難し」で、木瓜爺の「うろじウロウロ」でも、この問題が暫く取り上げられるでしょう。当分の話題として、「捨ててこそ」を設定してみました。
「逝く」という事になると、どうしても神仏的な話も絡んできます。まず、その面から、木瓜爺自身の心の問題を説明してみます。かなりチャランポランなのですが、木瓜爺は一応「仏教徒」の端っこにおります。仏様の代弁者としての「僧」は、「人間は無に生まれ、死ぬというとで無に帰る」というような事を云います。生まれると云うことは「無」じゃねえだろう・・などと、ひねくれ木瓜爺は納得しないのですが・・・
木瓜爺は、普段「曹洞宗」のお経を読んでいます。土曜日だけ「浄土宗」のお経を読みます。これは、祖父母の代には「浄土系」だったのを、祖父が死んだ時に新しく墓を作る事になり、見つけたお寺が曹洞宗だったために起きた現象なのです。週一日だけは、祖先の為に経を読むことにしているのです。他の日は、今生きている人々の為に、佛のご加護をお願いしているのかも知れません。
共通のお経もありますが、違う部分で云いますと、曹洞宗の場合は「修證義」という明治になってから作られたお経があります。道元の教えを、現代語に近い形で分かりやすく(?)まとめたものと思われます。是などは明らかに、今生きている人間のための経です。このお経のなかで、木瓜爺が心に刻んでいる一節を書いて見ます。
『・・・、無常忽ちに到るときは国王大臣親ぢつ従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり、・・・』
死ぬときは誰にも助けてもらえない、ひとりぽっちだよ、生きているときにやった「善悪や業」だけはついて行くけれど、この世のものは、全て捨てて行きなさい・・・ですねえ。
話を変えます。ブログの題名にした「捨ててこそ」という言葉を考えてみます。
空也や一遍が云った言葉 「捨ててこそ」 を、インターネットで検索すると、何故か「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」 という格言(?)のようなものの解説になってしまいます。
なんとも不思議な現象です。
この格言めいた言葉は、「命を捨てるつもりになれば、成功するチャンスがあるかもしれない」というような意味でしょう。 空也や一遍の思想とは全く違う次元の話です。
空也上人の場合は、醍醐天皇の皇子という「身分を捨てる」と云うところから始まっています。命ではないのです。一遍上人の場合は、「捨聖」とまで云われるほど捨てまくりましたが、最後は栄養失調で死んでしまいます。浮かぶ瀬を求めたわけではありません。
ここで、このお二人が、いずれも「阿弥陀如来」の信者だったことを思い起こしましょう。言い換えると「他力本願」と言われる宗派なのです。最後は、阿弥陀様にお任せできるから、総てを捨てられるとも云えそうです。
ということで、木瓜爺は何を捨てて行けるのか、どう捨てればよいのか・・・ぽちぽち考えます。
しかし、「言うは易く行うは難し」で、木瓜爺の「うろじウロウロ」でも、この問題が暫く取り上げられるでしょう。当分の話題として、「捨ててこそ」を設定してみました。
「逝く」という事になると、どうしても神仏的な話も絡んできます。まず、その面から、木瓜爺自身の心の問題を説明してみます。かなりチャランポランなのですが、木瓜爺は一応「仏教徒」の端っこにおります。仏様の代弁者としての「僧」は、「人間は無に生まれ、死ぬというとで無に帰る」というような事を云います。生まれると云うことは「無」じゃねえだろう・・などと、ひねくれ木瓜爺は納得しないのですが・・・
木瓜爺は、普段「曹洞宗」のお経を読んでいます。土曜日だけ「浄土宗」のお経を読みます。これは、祖父母の代には「浄土系」だったのを、祖父が死んだ時に新しく墓を作る事になり、見つけたお寺が曹洞宗だったために起きた現象なのです。週一日だけは、祖先の為に経を読むことにしているのです。他の日は、今生きている人々の為に、佛のご加護をお願いしているのかも知れません。
共通のお経もありますが、違う部分で云いますと、曹洞宗の場合は「修證義」という明治になってから作られたお経があります。道元の教えを、現代語に近い形で分かりやすく(?)まとめたものと思われます。是などは明らかに、今生きている人間のための経です。このお経のなかで、木瓜爺が心に刻んでいる一節を書いて見ます。
『・・・、無常忽ちに到るときは国王大臣親ぢつ従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり、・・・』
死ぬときは誰にも助けてもらえない、ひとりぽっちだよ、生きているときにやった「善悪や業」だけはついて行くけれど、この世のものは、全て捨てて行きなさい・・・ですねえ。
話を変えます。ブログの題名にした「捨ててこそ」という言葉を考えてみます。
空也や一遍が云った言葉 「捨ててこそ」 を、インターネットで検索すると、何故か「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」 という格言(?)のようなものの解説になってしまいます。
なんとも不思議な現象です。
この格言めいた言葉は、「命を捨てるつもりになれば、成功するチャンスがあるかもしれない」というような意味でしょう。 空也や一遍の思想とは全く違う次元の話です。
空也上人の場合は、醍醐天皇の皇子という「身分を捨てる」と云うところから始まっています。命ではないのです。一遍上人の場合は、「捨聖」とまで云われるほど捨てまくりましたが、最後は栄養失調で死んでしまいます。浮かぶ瀬を求めたわけではありません。
ここで、このお二人が、いずれも「阿弥陀如来」の信者だったことを思い起こしましょう。言い換えると「他力本願」と言われる宗派なのです。最後は、阿弥陀様にお任せできるから、総てを捨てられるとも云えそうです。
ということで、木瓜爺は何を捨てて行けるのか、どう捨てればよいのか・・・ぽちぽち考えます。
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